この数ヶ月ほど東浩紀や柄谷行人周りのいわゆる日本の現代批評をざっくり読んでいた。
自分にとってはドメスティックな批評も思想も小説を読むのと同じで暇つぶし以上のものではなく、そこに何か深い知恵の洞察や、生き方そのものを変えてしまうような斬新な物の見方を期待しているわけではない(人生を変えた本は確かにある。ドストエフスキーはその一つ)。
小林秀雄と吉本隆明の二人は好きだが、別に尊敬の対象ではない。変な小説やエンタメを読むより彼らの文章を読む方が面白い時間が過ごせるというだけだ。
そういう意味では、この数ヶ月読んだ柄谷や東の本の大半は暇つぶしとしても大して役に立つものではなかった。自分はデリダにもドゥルーズにもガタリにも一切興味がない。唯一興味があったのは柄谷行人と東浩紀の関係性で、柄谷の強い影響下にものを書き始めた東がどのように柄谷の影響を外れ(乗り越えたとは言わない)ていったのかの過程にあった。
身もふたもない言い方をすれば、柄谷はその時の自分の関心にしか興味のない天然タイプで、東は他人からの承認がないと生きていけない自意識過剰の文学青年みたいな所がある。
このような両者が幸福な関係を保つことができるのは、柄谷の関心が東に向けられている時だけで、東が関心を持っているもの(アニメとか)に柄谷が積極的な理解を示してくれている間に限られる。当然ながら前者は最初の数年で終わった。後者に関しては全く起こらなかった。
僕は、宮台真司の言い方を借りれば八十年代にゴミを散らかしまくってその掃除をすることもせず、アカデミズムの異端的な存在に腰を落ち着けて情況にコミットせず他人事のような批評めいた言説を時々適当に漏らすだけの浅田彰が嫌いだ。でもそれは近親憎悪のような物だと思う。頭脳のレベルは月とスッポンの差はあるけれど、浅田の考えはなんとなく分かる。内容がわかるという意味ではない。だから浅田個人には柄谷や東のような自分とは異質な人間に対する興味を感じない。
異質とはいってもどこか共感できる所があるから興味が湧くわけで、例えば柄谷のように自分の考えていること以外には世界に重要なことなどないと思い詰めていく傾向は自分にもそういう所があるので面白い。小島信夫はそこに注目して「別れる理由」の中に柄谷を登場させ、うまく特徴をとらえている。ただ柄谷が他の人と違うのは、彼の思索が磁場のようなものを持っているところで(特に初期)、それは彼の思想そのものよりも吉本隆明にも通じる呪術的な日本語力にあったのではないかと思っている。柄谷は吉本とは違って英語で本が書けたし、一定の評価も受けているが、世界思想として評価される水準ではない(別に世界思想として評価されているから偉いと思っているわけではない)。吉本の著作は海外では単に意味不明なキワモノである。
東浩紀は体質的にはアクティビストなのに思想的にはニヒリズムに陥ろうとするのを懸命に食い止めようと葛藤している様子が面白い。「観光客」にしても「訂正可能性」にしても、出口がないのを知りながら足掻いているようにしか思えないが、それがアクチュアルでいい。
全く関係ないが今回の都知事選は東浩紀と菅野完の水面下のバトルという観点から注目している。それは霊的次元の話で。
東は1997年に書かれた「柄谷行人『探究』の紹介」という文章の中で、批評家柄谷の最も重要な仕事である『探究』シリーズについて極めて的確な分析を行なっている。
それまで文芸評論家として活動しながら、日本文学の状況から離れた理論的かつ抽象的な考察を行ってきた柄谷が、80年代前半に西洋的な思考一般の必然的破産を執拗に問い続けた末に、『探究』においては理論的態度そのものを放棄し、文学と哲学、実存と理論の媒介/総合を目指した。柄谷自身はこの態度変更を「転回」と呼ぶ。
「探究」のスタイルは、さまざまな思想的文脈を持つ対象をそれ固有の位置から引き抜き、著者特有の理論的パースペクティヴの中に再配置する鮮やかさで特徴づけられる、と東はいう。
(注目すべきは、このスタイルは東浩紀の「一般意志2.0」や「観光客の哲学」「訂正可能性の哲学」(そしておそらく現在執筆中の新しい哲学書)などの哲学書のスタイルそのものであることだ。)
東は「探究Ⅰ」ではウィトゲンシュタインの理論が持つ特異点を「ウィトゲンシュタイン」という実存の還元不可能性と意図的に混同して解説するなど、思想家の固有名に重点を置き、そのために実存→理論の回路を想像的に説明するだけで、理論→実存の方はほとんど明らかにできていないと批判。「探究Ⅱ」はこれに対する自己批判としても理解でき、「探究Ⅲ」においてはレトリックを排してより直接的に取り組んでいるという。
ただし、ナショナリズムとカントの三批判の同時性を論じるこの企図の成否については現時点では楽観視できず、97年3月の時点では「探究Ⅲ」はむしろ膠着状態に陥っているという。
(柄谷が尼崎で母親の病院を見舞った帰りにバス停で「交換様式」という「啓示」を受けるのはこの一年後である。この啓示をもとに「トランスクリティーク」として書き直された「探究Ⅲ」についての東の評価は定かではない。)
また東は1999年に柄谷が出した『ヒューモアとしての唯物論』文庫版解説の中で、上記の80年代柄谷の「転回」を「病」からの回復に準え、その治癒の理由が自分にとって謎のままであると言っている。ただし「そのような治癒の存在は、多くの読者に強い希望を与えてくれる。少なくとも私は力づけられる」ともいう。
ちなみに、柄谷を論じた上記の二つの文章は、東の「郵便的不安たち」(1999年)には収められているが、のちの文庫版からは削除されている(柄谷や浅田との「存在論的、郵便的」を巡る共同討議も削除)。
東と柄谷は1999年の批評空間の公開シンポジウムあたりを境にして思想的にも人間関係的にも距離を取ることになるが、2004年2月「ファウスト」に掲載された「ゲーム的リアリズムの起源」という小論で柄谷行人の「意識と自然」や「日本近代文学の起源」を使って「ゲーム的リアリズム論」との共通性について論じている(正直この議論は自分にはピンと来なかった)。
東が初めて柄谷の文章に触れたのは、高校一年か二年の模試の国語の長文のテストだったという。高三の時に『内省と遡行』を買って読んだら、すぐにそのテストに出ていた文章だとわかった。何か力があると感じ、その体験が批評家としての出発点にあるという。