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これいった結論もなく終わる奇妙な駄文

東浩紀は、柄谷行人が『探究Ⅰ』で述べている「他者」とか「教える・学ぶ」関係は父と子の話だといい、小学生くらいの子どもを抱えた柄谷が「父になれないぼく」についての話を書いているのだと主張している(『現代日本の批評1975-2001』講談社、69頁)。

東も若い頃は『探究Ⅰ』の議論にかなり影響されたといい、事実彼の『観光客の哲学』や『訂正可能性の哲学』には、『探究Ⅰ』で論じられているウィトゲンシュタインパラドックスクリプキクワス算)や固有名の問題、家族的類似の問題などが出てき、柄谷の直接的な影響を感じさせる。

今の東の認識では、柄谷の『探究Ⅰ』の議論は単純すぎるといい、コミュニケーションを語る上で「教える・学ぶ」関係以外の第三項である「私生児」の問題が視野に入っていないという。「私生児」というのは父子関係に入らずに、父子の関係をずっと横で見ているような存在であり、にもかかわらず(それゆえに)、父や子の欲望をいちばん強く受け継いでしまったりする。その典型が『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフである。

ぼくは『批評空間』の私生児だ、と自嘲気味に語る東は、柄谷から「東くんの『誤配』というのは『誤解』のことで、そんなことはおれが昔から言ってる」と言われたという(『批評空間』18号「トランスクリティークとしての脱構築」、1998年)。

しかし誤配と誤解はちがう、と東はいい、「郵便的関係」を父と子の関係ととらえる柄谷は「誤解」しているのだと主張する。

父と子の間では郵便(射精)は届いており、そこに「誤配(散種)」はない。教師(父)と生徒(子)のあいだには誤解は生じるが、それはあくまでも父子関係が保証された状態のうえのことだ。

私生児というのは、たとえば勝手に本を読んでいる読者のことで、まさに東は『批評空間』という雑誌を「勝手に読んでいる」読者でしかなかった。そういう関係性の意味というのを、柄谷はほとんど考えていなかったという。

柄谷にとっては、「文学」や「批評」がひとつの学派のようにイメージされていて、全員が「子ども」だと思っている。柄谷が2002年4月18日にネットに発表した「子犬たちへの応答」という文章に、そのような姿勢が端的に表れている、というのが東による見立てである。

この文章の中で柄谷は、東浩紀鎌田哲哉大杉重男千葉一幹らの若手批評家たちについて、「端的にいって、理論的能力が欠けている。それでも、勉強しようとする知的な関心や倫理的な衝迫があればいいが、それもない。たんに、何か派手に有名になりたいという根性があるだけだ。さらに、この連中には文学的能力がない。もともと「批評の批評」しかやったことがないから、小説が読めない。教養がない。語学力もない。これらは致命的な欠陥で、彼らがまともな批評家になれるわけがない。」と攻撃を加えている。

感情に任せた激烈な言葉であり、こんなことを書かれたら、もうこんな奴には関わりたくないと思って当然だろう。東が当時笠井潔との間で行われていた往復書簡の中で同世代の笠井の背後に柄谷を見て険悪な雰囲気になったのもこういう背景があれば納得できる。

一般に団塊の世代の連中は底意地が悪く、若い世代に抑圧的である(柄谷自身は団塊よりは少し前だが)。東と同世代の自分もこういう不愉快な経験をしたことがあるので、東の気持ちはよくわかる(何もかも世代論に帰結させてしまうのは悪しき傾向とは思うけれども)。

「誤配」があるから面白いのだ、とか、シリアスな問題に取り組むにも「観光客」のいいかげんなスタンスが役立つことがあり、どんな議論にも「訂正可能性」が許容される緩さが必要なのだ、という東の近年の主張は自分には親しみやすいし大いに頷けるところがある。

 

柄谷の『探究』で個人的にいちばんおもしろかったのはドストエフスキーについての議論(第11章「無限としての他者」)で、バフチンキルケゴールウィトゲンシュタインを引用しながら、ドストエフスキーの小説における「他者」の問題を論じている。

これなどは東浩紀の言う「新しい情報の提供があるわけでもなく、新しい価値判断があるわけでもない、ましてや学問的研究の積み重ねがあるわけでもない、なにか特定の題材を設定しては、それについてただひたすらに思考を展開し、そしてこれいった結論もなく終わる、奇妙に思弁的な散文」(「批評とは何か」ゲンロン4)としての批評の面目躍如といった趣の文章である。

そういえば東浩紀もよくドストエフスキーを論じている。彼の処女作は「ソルジェニーツィン試論」だが、その中でもドストエフスキー(大審問官)が中心的に論じられている。

柄谷はどうしても否定しきれない超越的なものへの憧憬があって、ドストエフスキーにとっての「他者」とはキリストであり、(ドストエフスキーにとっての)キリストこそ「非ユークリッド的空間」において平行線が交わる「特異点」なのだといったロマンチックな結論に落ち着かせようとするのに対し(暴論的要約)、東はもっとリアリスティックだ(具体的には忘れた)。

吉本隆明の「マチウ書試論」の背後には組合活動の挫折があり柄谷行人の批評やNAMの背後にはブント体験の不完全燃焼感があり、東の「哲学」の背後にも何らかの挫折体験がある。そういう実存的契機を含まない「批評」はやっぱり読んでも引き付けられるものがない。

 




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