柄谷行人は1995年6月にソウルで行った「地震とカント」という講演の中で、オウム真理教について「彼らの理論は、別に日本的でもインド的でもなく、19世紀に西洋で起こった神智学に発するスピリチュアリズムの末流です」と述べ、さらにスウェーデンボルグについて「一級の科学者であり、同時に視霊者(ヴィジョナリ)でした。ある意味で、彼は19世紀末に隆盛するようになった神智学を先駆ける者です。神智学者は、知的レベルでも視霊のレベルでも、スウェーデンボルグにはるかに劣るものですが」とも言っている。
それだけのことを言うからには神智学のこともかなり知っているのだろうと思うが、少なくともそっちについては柄谷行人よりも自分の方がたくさん読んでいる自信がある(だからなんだよという話だが)。
また柄谷と中沢新一との対談(「コンピュータと霊界」ユリイカ1983年6月号)の中で、中沢は「いまブラバツキーの書いたものを読んで、彼女はチベットへでかけ、チベットのグルから教えを受けたというものを読むと、どうしても貧弱さの感じをまぬかれません。これはたぶんチベットじゃなくて、フランスあたりで受けた啓示じゃないかというふうな感じもするわけです」と言っている。さらに「ブラバツキーとかグルジェフなどが、いつも異世界というか、異端の宗教のなかに、自分のイマジネーションを求めたからなのではないでしょうか。一方でマハトマみたいなカリスマ的な異教的存在をつくらなきゃならなかったとしても、ですね。」などとも言っている。当時から自分は中沢新一はいい加減なことを言っていると思っていて彼の本はまったく読む気がしなかったのだが、こういう発言を読むと、さもありなん、という気がする。
ポストモダンの連中は「知の領域」を横断して手当たり次第に手を出して玩具にして戯れてバブル世相と一緒に踊ってはじけて消えた。知ったかぶりと虚栄があるだけで少なくとも自分にとって人生を賭けて取り組むべきと思えるほどのものはまったく何も感じられなかった。
ブラバツキーが立ち上げた神智学協会という組織は、20世紀の初めにクリシュナムルティというインド人少年を未来のメシアとして宣伝し、そのことに嫌気がさしたシュタイナーが分離して人智学協会を設立した。
クリシュナムルティ自身も嫌気がさして自分のために作られた組織を解散してしまう。その後クリシュナムルティは個人で世界中で講演活動をしたり学校をつくったりして「20世紀最大の哲学者」などと呼ばれて90歳過ぎまで生きたが、日本ではほとんど知られていない。日本で「哲学者」というと、デリダとかドゥールズとかラカンとかフーコーということになっているからだ。柄谷行人なども「哲学者」を名乗って数年前にナントカ賞という世界的な哲学賞を受賞した。
ポストモダン思想のようなイカサマ哲学とは明らかに違うが、クリシュナムルティもまた「哲学者」ではなかった。否、ソクラテスが哲学者というなら、そう言えるかもしれない。クリシュナムルティもソクラテスと同じで、本は書かず(何冊か突発的に書いたものはあるが)、もっぱら対話が主であった。
日本に雨宮第二という、いかさまグルめいた、昔で言う破戒僧みたいなのがいて、ダンテス・ダイジなどと名乗って1987年に40歳前で死んだのがいたが、彼は「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」という本を書いて、のちにオウムの修行のネタ本になったと苫米地英人などが指摘しているが、その巻頭には「クリシュナムルティの言うことが分かるのならこの本は全然必要ない」と書いている。
自分は柄谷行人や中沢新一がブラバツキーの本を一冊も完読したことがないことを断言できるが、オウム信者の誰も神智学などロクに知らなかったことも断言できる。彼らが熱心に読んでいたのは中沢新一のチベット仏教修行本であり、柄谷行人の本に「昭和と明治は同期しているから明治から見て昭和16年の日米開戦の年に当たる1995年に何かが起こる」と書いてあったのを真に受けて地下鉄サリン事件を起こしたのである(これは上祐のブログに書いてあったとして柄谷自身が認めている)。
同じ1970年生まれの外山恒一が書いた『全共闘以後』という本を読んだときに、彼が自分の世代の「ノンセクト・ラディカル」運動が不可視化された「青いムーブメント」として存在していたと主張しているのを読んで、自分の世代には外山の描く「政治運動史」以外にも「不可視化されたムーブメント」が存在していると思った。
自分はポスト・モダン思想ともオタクやアニメやサブカルとも無縁で生きてきた。政治運動や学生運動とも無縁であったといってよい。1990年3月に外山らの若者たちが東京大学の駒場寮食堂で開催したという全国高校生会議についても、同じ場所にいたにもかかわらずまったく知らなかった。
とはいえ、多少の政治意識に目覚めた時期もあり、日本新党の学生ボランティアに「体入」してみたり、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた世界環境会議の日本NGO事務局(岩崎駿介代表)のボランティアに通ったりしたこともある(そこで当時ピースボート代表をしていた辻元清美にも会った)。
大学の先輩には新左翼(ノンセクト・ラディカル)の精神をわずかに受け継いだような人たちがいて、彼らは一番信頼できる人たちだった。大学に入った当初は、彼らの価値観、読んでいる本、聞いている音楽(ジャーマンサイケだのジャズロックだの)、見ている映画(「シティロード」という映画雑誌を片手に)をひたすら追いかけていた。
しかし、自分の学生生活の中心は、専ら「精神世界」の探求であった。ノンセクト・ラジカルを含めて学生運動にはまったく関心がなかったし、もちろん(?)学生の本分である学業やキャンパス・ライフにも完全に背を向けていた。当時のバブル期真っ盛りの世相には反感しか抱いていなかったし、くたびれたサラリーマンたちが今懐かしく思い出すような享楽的な青春などとも無縁だった。
外山恒一は、オウム真理教は一般に言われるような90年代のムーブメントではなく、80年代のムーブメントであると指摘しており、1990年の衆議院選挙運動の敗北が彼らを過激路線に走らせた直接のきっかけであろうと述べている。その認識にはまったく同意する。外山はオウム真理教事件も広義の学生運動史の中に位置づけているようだが、その見解にも同意する。というのも、オウムは確かに単なる宗教団体ではなく、具体的な社会変革、革命(それが拠って立つ思想的基盤と社会歴史認識がいかに稚拙で奇矯なものであったとしても)を目指した、主に20~30代の若者たちによって担われた運動体であったからだ。
僕はオウム真理教とその信者には反感を抱いていたが(そもそも組織的宗教といったもの自体に強い不信感を持っていた。それがクリシュナムルティに関心を持つようになった主な理由である)、スピリチュアルなものへの関心は否定しがたく、90年代を通じて、いわゆる精神世界系のグループやセミナーにも参加していた。同時に、そうした「人々の霊的認識の目覚め」が社会変革に直結するのだという素朴な信念も抱いていた。
ある環境NGOの会合に出席したとき、自分の立場はどういうものかを説明する段になってまごついていると、「それはいわゆるディープ・エコロジー的なもの?」と聞かれた。その時に、社会運動の中にそういうカテゴリーが存在するのだということを初めて知った。
当時、僕と同じような信念を抱きながら、同時にオウム真理教のような過激なやり方(テロリズムは論外)にも反感を抱きながら、組織の中の個人としてではなく、あくまでも「個」としての主体性をもって「社会変革」への道を模索していた同世代の人々は確かに存在した。それは90年代の「おたく」文化に属するものでもなく、小林よしのりの「ゴーマニズム」の影響とも無縁で、宮台真司らの社会学者が提唱したような「まったり革命」の完全な圏外に位置する運動であった。
当時関係していた人々との関係は、21世紀に入っていつの間にか失われてしまった。彼らの「失われた年月」の通史を記録化しておくべきなのではないかと、外山恒一の力作を読んで思った。しかしこの分野には、外山のような「勤勉さと刻苦勉励さ」をもって歴史の編纂を試みようとする者は存在しないだろうこともまた知っている。