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NAMEMO

吉本隆明についていえば、彼は50年代にはたいへん優秀な批評家だったと思います。彼の理論がどうのこうのということではありません。吉本理論というのはむしろ後にできるのですから。50年代の吉本というのは非常に動的な動きをしている批評的精神であって、「これが吉本思想です」というふうに体系化できるものではなかった。後にできた吉本理論に対しては興味はない。しかし、50年代の吉本の批評的な意識とフットワークは今から見てもたいしたものであると思う。

60年代に彼が丸山(真男)をやっつけたのもいいんです。丸山真男は「超国家主義の論理と心理」のような論文がえらく尊敬されていましたが、あんなもので天皇ファシズムを理解することはできない。

しかし、70年代以後の吉本隆明はだめです。そのことは、彼がそれまで大変重要な批評家だったということを否定することにはならない。

50年代に、吉本隆明は、自由主義社会主義アメリカとソ連の対立なんてものは虚構であって、世界に存在するのは支配者と被支配者だけだといっていた。そこから、その当時の擬制を批判していた。今吉本隆明はそんなことはいわない。しかし、彼がいったことは今でも新鮮なんですよ。実現されていないのだから。近代主義にしろ何にしろ、実行されていないことはみな新鮮なんです。

たとえば、ブルジョア革命というと左翼は馬鹿にしてきたけど、それが存在しなかったところでそんなことをいう資格はない。東欧革命だってブルジョア革命じゃないですか。もちろん、それで終りではない。しかし、そもそもブルジョア革命が実現されていないようなところで共産主義などありえないというのが、マルクス弁証法です。

柄谷行人 「戦前」の思考を巡って(「すばる」1994年6月)

いわゆる「パフォーマティブ」な批評という意味で、日本批評史上(そんなものがあるとすれば)50年代の吉本隆明以上の存在は存在しないのではないか。

この時期の吉本の年譜を見てみるとこのようになる(主要な活動のみ)。

昭和26年(1951) 27歳

3月、東京工業大学「特別研究生」1期2年の課程を終え、研究室を去る。

4月、東洋インキ製造に入社。葛飾区にある青戸工場の研究室に勤務。

昭和27年(1952) 28歳

8月、詩集『固有時との対話』を、奥野健男、坂本敬親の協力で自家版として発行。

昭和28年(1953) 29歳

3月、東洋インキ製造青戸工場労組の組合長に選任され、同時に、同社の5組合を傘下に持つ「連合会」の会長にも選ばれる。

9月、詩集『転位のための十篇』を自家版として発行。

10月から12月にかけて、「連合会」労組による賃上げほかの要求闘争に立ちあがるが、闘争方針をめぐって紛糾、先鋭的な青戸労組も孤立して敗北、吉本執行部は総辞職に追い込まれる。

昭和29年(1954) 30歳

1月、年明け早々の6日に、会社から人事異動を命じられ、週に一度会社にレポートをを提出するだけの派遣研究員となる。

前年末の闘争の挫折を総括する「前執行部に代わって」を「青戸ニュース」1月20日号に書く。

6月、1日に奥野健男日野啓三、服部達、清岡卓行らと「現代評論」を創刊し同人となる。創刊号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表。

12月、「反逆の倫理II――マチウ書試論」を「現代評論」2号に発表。「III」は未発表のまま『芸術的抵抗と挫折』に収録。

昭和30年(1955) 31歳

6月、東京工業大学への「長期出張」から東洋インキ製造の本社へ再配属を命じられ、「つめ腹を自らの手できって」、「退職または脱職」し、科学技術者の道を「自ら永久に閉ざす」。

7月、「高村光太郎ノート--戦争期について」を「現代詩」に発表。この論考と11月に「詩学」に発表の「前世代の詩人たち--壷井・岡本の評価について」の論考によって、本格的に文学者の戦争責任を追及。

昭和31年(1956) 32歳

東洋インキ製造を労働組合運動で追われた後、失職状態が続く。この年の初めごろ、既婚の黒沢和子を知り、三角関係で進退窮まる。

2月、「新日本文学」2月号で佐々木基一花田清輝と「映画合評」。3月号で佐々木基一花田清輝武田泰淳と「ホーム・ドラマと時代感覚」。

4月、「民主主義文学」批判――二段階転向論」を『荒地詩集1965』に発表。

5月、「文芸時評 不毛な論争」を「東京大学学生新聞」に発表。

8月、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で、長井・江崎特許事務所に就職。昭和45年に退職するまでの14年間、月水金の隔日勤務で、ドイツ系統の特許の出願人との折衝、翻訳などで働く。

書評「谷川雁詩集『天山』」を「現代詩」に発表。同号で鼎談「芸術運動の今日的課題」を花田清輝岡本潤と行う。この鼎談で花田との間に、戦争中の「書かれたものについての責任」や「レジスタンス」等について激しい応酬があり、「花田・吉本論争」の発端となる。

9月、武井昭夫との共著で最初の評論集『文学者の戦争責任』が淡路書房から刊行される。座談会「戦争責任を語る」を小田切秀雄平野謙、原田義人、白井浩司、大熊信行、本多秋五杉浦明平佐々木基一武井昭夫村上兵衛荒正人とともに行い、「近代文学」に掲載される。

10月、「民主主義文学者の謬見」(上・下)を「東京大学学生新聞」に発表。

昭和32年(1957) 33歳

9月、「芸術運動とは何か」を「総合」に発表。

昭和33年(1958) 34歳

11月、「転向論」を『現代批評』創刊号に発表。

昭和34年(1959) 35歳

1月、花田清輝の吉本批判を契機に、「花田・吉本論争」始まる。

2月、『芸術的抵抗と挫折』(未来社刊)、

4月、「アクシスの問題」を「近代文学」に発表。

6月、『抒情の論理』(未来社刊)。

9月、「転向ファシストの詭弁」を「近代文学」に発表。

昭和35年(1960) 36歳

1月、「戦後世代の政治思想」(『中央公論』)。衝撃をもって迎えられる。
安保闘争が激化する中、全学連主流派、ブントを支持、六月行動委員会に加わり行動を共にする。

6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の「6・4スト支援すわりこみ」に参加、無数の民衆が参加した安保反対の嵐のなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。闘志たち100人余と共に警視庁構内で「建造物侵入現行犯」で逮捕、18日釈放。逮捕、取調べの直後に、第一回近代文学賞を受賞。

真昼の決闘 : 花田清輝・吉本隆明論争』(好村富士彦晶文社、1986)より

なるほど、わたしは酒をのまない。アドルムとは縁がない。恋愛をしない。わたしは品行方正である。そうして、そうであることに、かくべつ、羞恥心を感じていない。したがって、わが国の文学者のなかには、そういうわたしが、わが身を田中英光にひきくらべるのは、はなはだ僭越だと思うひともあろう。しかし、放蕩無頼のやぶれかぶれがあるように、品行方正のやぶれかぶれもあるのである。わたしは、それほど僭越だとは考えない。

花田清輝田中英光―「愛と憎しみの傷に」跋』

花田清輝 1930年ころ




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