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フランス第二共和政の歴史(K.Marx「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」参考資料)

フランス第二共和政の歴史〉

1848年
2月24日 二月革命(改革宴会が起爆剤)によりオルレアン家の国王ルイ・フィリップ亡命、七月王政終焉。
共和派政治家アルフォンス・ド・ラマルティーヌが中心となって王政の廃止決定。
フランス革命の経験者であったデュポンドルールが首班となって、ラマルティーヌなどの自由主義者だけでなくジャコバン派のルドリュ・ロランやルイ・ブランら社会主義者を含む11人によって臨時政府樹立宣言を行う。
臨時政府はアフリカに派遣していた軍隊を本国に呼び戻し外国からの干渉に備えて軍を強化。

2月25日 武装労働者たちが国旗を三色旗でなく赤旗に変えることを要求。ラマルティーヌによる反対演説。27日に三色旗布告
2月26日 遊動機動隊の編成
2月27日 国営工場の設置布告(ルイ・ブランの発案)失業者が殺到
2月28日 労働者のための政府委員会設置発表
3月2日 10時間労働の採用布告(地方では12時間)
3月5日 普通選挙制の布告(21歳以上6か月以上同一住所の全国民 女性除く)
     有権者20万人から900万人以上に増える
3月8日 国民軍入隊の財産上の資格制限廃止(兵士数2万4千から6万に増加)
3月17日 選挙実施日を巡る共和左派による示威運動
4月16日 同上

臨時政府は生存権・労働権・団結権などの市民的権利を承認。さらに、パリ民衆とルイ・ブランの強い要求を踏まえて「国営工場」と労働者のためのリュクサンブール委員会の設立が定められた。また奴隷制の廃止の政令が発せられた他、言論の自由、出版の自由が保障され、200以上の新聞が発刊されることになった。

4月23日 憲法制定会議の国政選挙実施(世界初の直接普通選挙
ブルジョワ共和派が800,社会主義共和派が100(労働者出身は30足らず)
総選挙は穏健共和派と保守派の秩序党が躍進を果たし、社会主義者にとって極めて厳しい結果になった。そもそも地方農民には社会主義に共感を抱く層が少なかったことに加え、パリでもかつてのフランス革命のような急進的なジャコバン独裁への恐怖感があったことから、社会主義者は議会に進出することができなかった。また、そもそも全国で選挙を行い各地の総意に基づいて政治を運営するということが、直接行動に訴えて革命の担い手となってきたパリ市民の地位を相対的に低下させることになった。

5月4日 憲法制定国民議会開会。

5月10日 憲法議会は臨時政府を解散し5人から構成される執行委員会と称する新政府設立を発表。選挙の結果、社会主義派がすべて除外される

5月15日 パリのプロレタリアートが国民議会解散を要求するデモ。ブランキとルイ・ブランが亡命し、多くの共産主義者が逮捕。

6月21日 憲法議会、国営工場の閉鎖布告

6月23日 六月蜂起
左翼陣営は自らの政治的主張を実現できないと考え、徐々に直接行動を激化させていった。そして、新議会で国営工場が閉鎖されたことを契機に、パリの労働者が大規模な武装蜂起を起こした。これがいわゆる六月蜂起である。4日間の流血戦を経て蜂起は鎮圧され、政府側703名、労働者側3035名に及ぶ多数の死者を出した。蜂起に関わったとされた労働者のアルジェリア流刑が進められた。

この事件により、それまで共闘してきたブルジョワプロレタリアートの関係が決裂。政府側を支持するブルジョワは、反政府的な労働者による社会主義革命を警戒するようになり、これまでのように革命の担い手にはならなくなった。分割地農民が土地の共有化をおそれ社会主義に敵対し、社会の安穏を求めて保守化した政府を支持するようになる。

六月蜂起の鎮圧後、暫定的に政治を担ったのが軍人カヴェニャックであった。カヴェニャックは「秩序の勝利」を謳い、国内反動派の秩序党と王政各国政府からの世界的賞賛を浴びたが、同時に第二共和政の死を早める存在となった。カヴェニャックが最初に取り組んだのは蜂起の鎮圧と容疑者探しであった。

6月26日 蜂起の原因を究明する調査委員会が発足し、オルレアン派のオディロン・バローが委員長に就任。委員会の目的はルイ・ブランやコーシディエールなど社会主義者を糾弾し、蜂起に関係していたとして責任を追及するとともに、支持を失わせること。

議会はバローの調査報告を受けて二人の社会主義者の問責を承認した。このときルドリュ・ロランはカヴェニャックと密約を結んで追及をかわした。言論の自由は否定され言論統制が進行、「労働の権利」が政府文書から消され、10時間労働制は廃止され、労働者の待遇改善など先進的な社会政策が否定された。

6月28日 議会がカヴェニャックに行政権執行を行う首相の地位を与え、執行委員会を解散し戒厳令を10月14日まで継続させると発表

ルイ・ボナパルトが6月の補欠選挙で当選。
ルイは外国政府や反動勢力からの資金援助と支持を受けて政治活動を図り、やがて共和制の敵になることが疑われた要注意人物であったため、議会では危険な亡命者が議席に就くことを承認するか否かで議論が紛糾。
母国政府での不信をよく弁えていたルイは、議席に就くことを辞退するとともに、議会で共和国への忠誠を表明。議会多数を占めていた秩序党はルイに誠実さを感じ入り、彼のフランスへの復帰を承認するとともに、その政治的復権の道を開く。

ルイの権力への道に貢献した人物に保守派のファルー公爵がいた。ファルーは共和派のカヴェニャックに民衆を弾圧させるという汚れ仕事をさせるべく陰謀をめぐらせていた。国立作業場を閉鎖して民衆の蜂起を誘発しカヴェニャックがこの蜂起を鎮圧、共和派は同士討ちを演じた。

共和派を構成する自由主義者社会主義者ブルジョワとプロレタリアは反目しあう関係になり、相互不信が広まっていった。弾圧者としての役割を果たしたカヴェニャックにもはや利用価値は無かった。ルイとファルーら秩序党の思惑は一致し、カヴェニャック降ろしのために共闘するようになる。

6月30日 教育法(カルノー法案)無償義務教育を謳うがカルノーは7月5日辞任に追い込まれる

9月 補欠選挙でルイ・ボナパルトが圧倒的な支持で当選。

憲法制定議会は、1)労働権、2)一院制、3)大統領選挙方法、4)大統領選挙期日をめぐって討議を展開。

革命の初期には熱烈に支持された労働権は「夢想家の感傷」だとか「職を持たない労働者に40スー(2フラン)の日当をやるための結構な発明品だ」とか揶揄された。結局「労働と産業の自由」が明記されることとなり、労働権は憲法から削除されることになった。

一院制に関して、バローは下院の独走を防ぐために第二院を設置することを求めたが、同時に執行府の独裁を阻止するために強力な一院制を設置することが決定、議会に対して参事院が設置され、立法審査のためのチェック機構となることが決した。

大統領については独裁者の登場が危惧され、国民投票ではなく議会による指名という方式も検討された。しかし、ラマルティーヌは大統領選に復権の機会を願っており、「いくらかは神の意志に残されるべきだ」と訴えて国民投票を強く支持した。大統領は国民投票によって直接選出することが決定され、大統領選挙は12月10日に実施することが定められた。

11月4日 議会は憲法の草案を完成させ、議会で賛成796票・反対30票で採択。戒厳令下での憲法制定は違法であるとして極右と極左が共に反対票を投じた。極左の代表者であったプルードンやピエール・ルルーは労働権の削除に反対して抗議。

11月12日 共和国憲法(1848年憲法)公布

第二共和政の政体はアメリカ合衆国の政治形態をモデルとし、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、議会解散権は有さなかった。そのため大統領と議会が対立した場合には行政と立法間の捻じれの解消は困難であった。

大統領・国会議員ともに成人男子による直接選挙で選出されるが、大統領選挙は有効投票数の過半数かつ最低200万票の得票が必要とされ、条件を満たした候補がいない場合には上位者5名の中から国民議会が決める。大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった。憲法からは長期政権を維持して政治の持続的なかじ取りが不可能な規定になっていた。こうした矛盾が後に致命的な落とし穴となっていく。

カヴェニャックは憲法制定を祝してコンコルド広場で祭典を催したが、当日は早くも雪が降りしきり、軍と政府の高官ならびに司祭の列席があったものの一般民衆はこれに参加しなかった。祭典は軍と宗教によって財産家の秩序が勝利したという点を強調するものとなった。民衆が祭典に参加しなかったのは天候だけが理由ではない。

民衆は王政に対して立ち上がったものの、その後に革命の成果と恩恵に十分に浴することができなかった。最大の理由は政府による弾圧を受けるに至った六月蜂起の傷が癒えていなかったためである。このような国民感情の悪化は大統領選挙に影響を及ぼした。

12月10日 第二共和国憲法に従って大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオンナポレオン1世の甥という出自を生かして各層の幅広い支持を得、543万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝。

12月22日 ルイ・ボナパルト、立法議会で宣誓し新大統領に就任。

第一次オディオン・バロー内閣は閣僚ポストをオルレアン派など王党派で固めた。ルイは国立の集団農場を設置して入植者を未開拓地に派遣し、農業増産によって食糧価格の騰貴に対処する政策案を提示していたが、政策の立案も遂行も思うように進められず、何もできないままに時を浪費することとなった。彼はハリエット・ハワードや女優のラシェル・フェリックス、シャセリオーのモデルで愛人だったアリス・オジーとの関係を楽しみつつ、機会が訪れるのを待った。

 

1849年
5月13日 立法議会総選挙実施。
保守派の秩序党が大勝、705議席中450議席を制して第一党に躍進。
ルドリュ・ロランら率いる山岳党(共和左派、モンターニュ派)は180議席へと議席を増やすことに成功。
カヴェニャック率いる穏健共和派(ブルジョワ共和派、純粋共和派)は75議席へと転落。山岳党が議席を伸長させたことは秩序党にとっては勝利を打ち消すほどの苦々しいものであった。

5月27日 憲法制定議会解散

5月28日 立法国民議会開会。

ルイ・ボナパルトの政治は「国内では秩序、権威、宗教、そして民衆の福祉、国外では国家の威信」を柱としたが、反動的なものであった。オルレアン派と穏健共和派の連立であったバロー内閣を退陣させる一方、議会内の勢力均衡の観点からブルボン王朝派の閣僚ファルー公爵との協調を重視し、彼が提出した教育改革法案通過を支援した。ファルー法と呼ばれるこの法律により、中高等教育の私学の認可とカトリック教会を支持する宗教教育が導入され、共和派の教員のパージがおこなわれた。
こうした反動政策への反発から1850年3月の補欠選挙では30議席の改選議席の20議席を山岳党(モンターニュ派)が占め、議席数を増やした。しかし、秩序党はこの敗北に危機感を感じ、左派の封じ込めを図ろうと巻き返しを始めた。

秩序党が多数を占める議会は成人男子選挙権を骨抜きにするために、選挙法を改正しようと試みた。左翼を支持していた都市部の急進的な労働者から選挙権を取り上げるべく、選挙権を得るために必要となる居住期間を半年から3年に延長した。その結果、1000万人の都市労働者のうち、300万人が有権者資格を失うこととなった。とくにパリでの影響は大きく、有権者の62%が選挙権をはく奪されたと言われている。

新選挙法は大統領選挙での議会の権限の強化も意味した。大統領選挙の有効得票数を200万票以上に規定されていたため、もし有効数に達しなかった場合には議会が上位3位から指名できた。山岳党(モンターニュ派)は議会で反対の論陣を張ったが無謀な蜂起を避けた。

6月11日 ルドリュ・ロラン、ローマ派兵を憲法違反として大統領と内閣を弾劾
6月13日 山岳党(モンターニュ派、小市民的民主派)の3万人デモ。オルレアン派の将軍シャンガニエルが鎮圧。ロランは亡命。

11月1日 ルイ・ボナパルトがバロー内閣を解任。

1850年
3月15日 新教育法(ファル―法)牧師に学校開く権利与え宗教教育導入
5月31日 新選挙法が議会を賛成多数で通過。普通選挙制廃止。
6月9日 集会と結社の自由禁止
6月16日 出版法(新聞発行に5万フランの保証金)
7月11日 出版法により検閲が復活

秩序党はルイの排除のためにあらゆる工作を試みた。そのひとつがルイの俸給問題であった。ルイは支持者の支援を得るため、自身の俸給とハリエッタ・ハワードからの借金によって資金を調達し、全国遊説(8月~9月)に歓呼を叫ぶ支持者部隊を動員しており、軍の兵士たちに御馳走を振る舞ったり有力者に贈賄を繰り返す賄賂政治に頼っていた。議会は大統領に不信感を抱いていたため俸給の支給を拒絶していたが、クーデターへの懸念から選挙法改正の協力に対する謝礼として臨時俸給260万フランを支給することを決定。

秩序党内のブルボン派(完全な王政望む)とオルレアン派(立憲王政)の対立

10月1日 ルイ・ボナパルトヴェルサイユでの閲兵式で「皇帝万歳!」と叫ばなかった歩兵隊の指揮官を解任

 

1851年
1月3日 ルイ・ボナパルト、シャンガルニエ将軍が秩序党と結託してクーデターを計画しているとして将軍を更迭。

議会によるクーデターは阻止され、今度はルイがクーデターを試みる番となる。ルイは議会との共存のため大統領再選禁止を規定する憲法第45条の修正を提案。議会内でも大統領によるクーデターを回避する必要性が認識され、憲法改正の議論が積極的に交わされる。

1月18日 立法国民議会、政府不信任案を可決。

4月11日 ルイ・ボナパルト、反議会的内閣を任命。

7月19日 ルイ・ボナパルト憲法改正案を議会に提出。アレクシス・ド・トクヴィルも将来の政変の可能性を予測して憲法改正を支持したが、6日をかけた議論の末に憲法改正案は賛成446票対反対278票で改正規定の三分の二に届かずに廃案となる。

11月4日 ルイ・ボナパルト、選挙資格制限法の撤回を議会に提案。
11月13日 提案否決。
11月25日 ルイ・ボナパルト、工業ブルジョワジーに演説、熱狂的支持を得る。
11月29日 選挙資格制限法の3年間同一居住要件を1年にするよう主張するも1票差で否決。

12月2日 ルイ・ボナパルトのクーデター(ナポレオン1世の1805年アウステルリッツ勝利の日)。
警視総監モーバ、陸軍大臣サン・タルノー、内務大臣シャルル・ド・モルニー、腹心ペルシニー、パリ総司令官ピエール・マニャンの主導。
国民議会を解散してオルレアン派のアドルフ・ティエールや王党派のベリエ、共和派のカヴェニャック将軍、シャンガルニエ将軍が逮捕され、議会メンバーが次々と拘束。
共産主義者の革命を防ぐとの名目でフランスの3分の1にあたる32の県に戒厳令を敷き、疑わしい者10万人の逮捕を命じた。

12月3日 民衆派議員ジャン・バティスタ・ボダンはバリケード上で共和政の防衛のために立ち上がるよう民衆を鼓舞したが、銃撃を受けて死を遂げた。
クーデターは抵抗を次々と排除して着々と進められ、成功を収めた。

12月8日 「大統領は警察の監視下にあった者と秘密結社のメンバーを5年間追放する権利を有する」と発表。共和派は秘密結社とみなされ、文人の集まりも取り締まりの対象となった。

12月20日 国民投票の結果、成人男子選挙の復活と憲法改正を提示した大統領提案が可決され、クーデター合法化(賛成743万票、反対64万票、棄権170万票)。

 

1852年
1月4日 新憲法(1852年憲法)公布。大統領が独裁権を得る。

2月 マルクスが「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」を政治週刊誌に発表。

2月3日 臨時裁判所の性格を持つ混成委員会が設置され、投獄者たちを裁く。裁判は非公開で、弁護士もなく、証拠もなく、控訴は認められなかった。
1万5千人以上が有罪判決を受け、代議員84名が追放命令を受けた。
ティエールとユーゴーも国外追放。

11月21日 国民投票でルイ・ボナパルトの皇帝即位可決。(賛成782万、反対25万、棄権200万)

12月2日 ルイ・ボナパルト、皇帝ナポレオン3世として即位、第二帝政開始。

 

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<王党派> 「秩序党」

ブルボン派  地主 ファルー、ペリエ

オルレアン派 金融ブルジョワジー ギゾー、ティエール、ジャンガルニエ

<共和派>

ブルジョワ共和派 中産階級(作家、弁護士、将校、役人) ラマルティーヌ、カヴェニャック

山岳派モンターニュ派) 小市民(小商店主) ルドリュ・ロラン

社会主義派>

社会主義者 プロレタリアート ルイ・ブラン、コシディエール

共産主義者 プロレタリアート ブランキ

ボナパルト派 ルンペンプロレタリアート マニャン、モルニ、モーパ

 




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