柄谷行人の「頭がおかしくなっていた」頃のエッセイに「ある催眠術師」(「文学界」1981年9月号)というのがあり、『隠喩としての建築』(講談社、1983)に収録されているが、1989年の講談社学術文庫版からは削除されている。
ここで柄谷は、十何年前に催眠術の講習を受けに行ったことがあると書いている。執筆時から10年以上前だから60年代ということだろう。ということはまだ柄谷が「群像」の新人賞を受賞して批評家デビューする前のことである。
小田原で二泊三日の合宿だったというから、けっこう本格的なものである。その後の「自己啓発セミナー」のはしりのようなものだろう(自己啓発セミナーも集団的な被暗示性を利用する点で催眠術的である)。
参加者は十二、三人で、年齢、職業もさまざま。建設省の役人もいれば、空手をやっている学生もいるし、バーテンダーもいた。
最初に自己紹介と「動機」をしゃべらされる。講習では二人ずつ組んで催眠術をかけあうなどし、有名な体を硬直させる「人橋」の実演(いわゆる「運動支配」)などもやる。そうやって最初の一日ずっと催眠術をかけあっていると、集団的な被暗示性が高まってくる。
翌日には「感覚支配」から「記憶支配」の段階へと進むのだが、そのあたりから雰囲気がやや異様になってくる。「記憶支配」では一人ずつが実験台にあがり、ある中年女性が突然興奮して泣き始めた。教師はすこしも動揺せずに誘導し、目が覚めたときにはけろりとしていたという。それを見た参加者は、「自分もそうだったのではないか」という疑念を持ち、これは冗談事ではないとう気持ちになった。
講習を終えた柄谷は、「免状」のようなものをもらった。その後しばらく、片端から催眠術をかけてまわったという。三十人くらい試したところで、妻が教えていた女子大の学生に簡単な催眠術をかけたら、そのままものもいえず起き上がれないという状態になった。元々神経症的な資質があり、催眠状態になって一挙に何かが出てきたしまったのだ。結局彼女を近くの精神病院に連れて行くことになり、恐怖を覚えた柄谷はもう戯れに他者催眠をやるまいと決心したという。
占星術に凝ったり催眠術の講習を受けたり、こういう柄谷の一面は大半の読者にとって「引く」対象だと思うが、自分などはむしろこういう通常の理性の逸脱に向けた柄谷の行動には親近感を覚える。
催眠術と言えば丹波哲郎も有名だ。彼の催眠術の師匠は藤本正雄という日産生命会長を務めた人で、『催眠術入門』という本を出してベストセラーになっている。