柄谷行人『マルクスその可能性の中心』、『日本近代文学の起源 原本』 (講談社文芸文庫)を週末に読む。
どちらも思想書、哲学書ではなく「批評」という言葉が一番しっくりくる。日本における〈批評〉というのはこういうもののことで、たしかに小林秀雄、吉本隆明の系譜に連なる。
内容的にはいずれも、既存の確立された概念(「貨幣」とか「近代的自我」とか)によって覆い隠され、隠蔽されている構造を暴くというスタイルで、読むとなんとなく「他の奴らには分かっていないこと」が知れて頭がよくなったような気分になれる。当時柄谷行人の信奉者がいたかどうか知らないが、いたとすればそういう感情を肥大化させた人たちだったに違いない。
今でいうとサブカル知識でマウントを取りたがる人たちと基本的には同じ構造。
そしてサブカルと同じで、一時的な「知の快楽」はあっても、人生そのものが変わるような衝撃はここにはない。当時の信奉者はそのような幻想を抱いたかもしれないが、所詮一時的なものであることにそのうち気づいただろう。
小林にしても吉本にしてもそれは同じで、〈批評〉が人生を変えるということはない。だが本物の文学、哲学、思想にはそういう力がある、と思う。
〈批評〉とは畢竟「物の見方の提示」だから、共感したり目を開かれることはあっても、存在を根こそぎ持っていかれるような力はない。でも引き付けられることはある。少なくとも当人(柄谷)にとっては切実な問題であるということは伝わってくる(浅田にはそういう感じはない)。
この頃に一緒にヨーロッパ家族旅行に行った妻の冥王まさ子(原真佐子)によれば、柄谷は「俺が一日考えるのをサボると、世界の解明が一日遅れるんだ」と言っていたというが、そのくらいの傲慢な自信がないと人を惹きつける本は書けないのだろう(ただの独善に終わる人が大半だが)。
『日本近代文学の起源』は韓国語に訳されて1997年に出版された。1986年の民主化後にアジアにおける「ポストモダン」状況を日本と共有していた韓国の知識層に柄谷の「言文一致による『風景』の発見による『近代的自我』という『制度』の誕生」という発想は大きな影響を与えたようだ。