今日で冬物スーツは最後だろうなと思いつつ先週からずっと着続けている。今日も最後だろうと思って着て来た。朝は丁度良かった。雨模様だったのが晴れてきた。
職場の二つ隣の土地のマンションが完成し、今日はいくつもの部屋にカーテンがかかっていて入居者が入っていた。ワンルームで30部屋以上はありそうだ。ということは月300~400万円の賃料は見込めるということか。建築費がいくらで採算コストはどうなっているのだろう、などと漠然と頭に浮かぶが、「考える」ところまではいかない。
千葉雅也の『デッドライン』を読みながら、細かい描写がいちいち上手いなあ、と思う。自分は風景描写や設定描写にはまったく興味がないので書けない。観察力がないと小説は書けない。別に書きたいとは思わないが。日曜日に図書館でコピーした千葉の「私小説論」は興味深かった。芸術は「脱目的性」でエンタメは「目的性」。自分のリアルな体験が究極のフィクション。なぜなら偶然性の産物だから。なるほどと思った。
週末には図書館で衝動的に7冊も本を借りてきた。「シンクロニシティ」で検索して出てきた「怪談本」(ちくま文庫)やら松村潔と辛酸なめ子のホロスコープ談義やら、吉本隆明の娘の闘病記(「猫だましい」)やら、予約していた吉本隆明の『追悼私記』、カント『実践理性批判』の解説書、ハイデガーの入門書、柄谷行人の文学論集。
柄谷の漱石論(「意識と自然」)、マクベス論(「意味という病」)という有名な評論を初めて読んだが、確かに読ませるなと思った。漱石論の「存在論的、倫理的」という論じ方は東浩紀の「存在論的、郵便的」を思わせる。マクベス論の「観念に取り込まれて殺人を犯す人間」についての記述は連合赤軍事件を受けて書かれたものだという。
たしか吉本隆明は柄谷のことを「浅田、蓮実と並んで三バカ」と言ってこき下ろしているのだが、その辺が知りたくなった。吉本は小林秀雄の追悼文でも、「源氏物語が読めていない」と批評家としての欠点を指摘している。
小林秀雄→吉本隆明→柄谷行人という批評の系譜だけが自分にとってリアルなものだ。
そして柄谷行人→東浩紀という系譜が成立するのかを今興味深く見ている。
柄谷の批評はまだ二つしか読んでいないが、彼の書き方のクセは、思わせぶりに読み手の裏をかくような表現を連発してケムに巻くことにかんじる。何か肝心なことがあることは分かっているのだが、それが何なのかは明示されない。明示されえないから肝心なのだといういいかたである。東浩紀がこれを否定神学と呼んで批判した気持ちはよく分かる。
なんて出鱈目なことを言っていたらまた訂正する。訂正可能だと信じる。
先々週の週末は妻と高齢者サービス住宅に住む母を訪ねた。1階に住んでいたのを、いい部屋が空いたといって半ば強引なかたちで移動した2階の部屋を見る。前の部屋よりも広く感じたが、収納スペースがないせいだろう。当初の予定では一緒に昼食を取るはずだったが、レストランが使えない(予約制)と前日の夜に電話があった。
最寄りの駅で妻が手土産(管理人と世話になった友人の分も含めて3人分)と花(鉢植えのカーネーション)を買うと言うので買っていく。母は自分の話に夢中でこちらの気遣いには一切気づかない。妻はにこやかに話を聞いていたが当然ながら内心呆れている。
これで当分訪問する義務を免れた気になり、小一時間で辞去する。タクシーで駅まで行き、駅前のビル5階にあるフードコートでインドカレーを食べて帰る。
行きのタクシーの中で、自分が父親に似てきていると言われた。独りで好きなことをやっているところが似ているという。じゃあ貴女はお母さんに似てきているのかな、と言ってその場は胡麻化したが、確かにそうかもしれない、と思った。祖父にも似てきた気がする。妻の母は数年前から痴呆症が進行し、いつまで独居を続けられるかという段階に来ている(現在はほぼ毎日デーサービスに送迎され、週末は必ず妻が訪れて一週間分の食料や身の回りの世話をしている)。
仕事が終わると、というより終業時間になると早々と引き上げる。仕事と私生活は完全に切り離す。片道1時間以上かけて自動車通勤していた父は行き帰りの車の中でいつもカーステレオを流していた。そこでかけるカセットテープの編集に凝っていた。自分は車の代わりに電車の中でいつもイヤホンで音楽を聴いている。その選曲には凝っている。好きなこと以外への関心のなさと好きなことへの凝り方など、対象は違えど確かに態度は似ているなと感じる。自分が若い頃宗教的なことに異常に関心を持ったのは父が強烈な無神論者だったことの裏返しだろうと今は思っている。