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丹波のおじさんのこと

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先の大戦に出征した者のうち最多の戦死者を出したのは、1921年(大正10年)から23年にかけて生まれた男子だという。丹波正三郎(本名)が生まれたのは1922年7月17日である。

大学在学中に第一次学徒出陣で軍隊に入ったが、前橋予備士官学校から立川の航空隊に移された。前橋予備士官学校の同期生はその後フィリピンでほとんど全員(90パーセント)が戦死してしまったという。

丹波が戦地に送られなかったのは、幼少期からの吃音のおかげだった。その代わり、軍隊では下士官から容赦のないリンチのようなしごきを受けた。顔が腫れ上がって食事が喉を通らず、口内が沁みるので味噌汁も飲めないほどだったという。

吃音は終戦とともに不思議と消えた。戦後はGHQの臨時通訳に採用されるが、前途が見えず街を彷徨している中で、新劇のチェーホフ桜の園』を見て俳優という職業の魅力に憑りつかれる。デビューは1952年夏封切りの『殺人容疑者』で、いきなり主役を張る。順調に出演を続けるも、態度のデカさから新東宝では干されそうになる。

丹波が人気スターの座を不動のものにしたのは映画ではなくテレビで、1960年の連続ドラマ『トップ屋』の主人公に扮してからである。37歳の遅咲きであった。

1959年、妻・貞子がポリオに罹り下半身麻痺の身体になる。貞子は北一輝の遠縁で、兄は「島田事件」で有名な弁護士の大蔵敏彦である。

丹波が「死んだらどうなるか」という問題に目覚めたのは、本人がいつも語っていた話とは別に諸説ある。マレーシアで撮影された『第七の暁』で一緒に仕事をしたスタントマンのキース・ピーコックが事故で亡くなったのがきっかけだという話もある。その訃報を聞いたのはロンドンで『007』の撮影をしているときだったという。ロンドンでは降霊会に初めて参加した。

妻の貞子は、夫の取りつかれたようなスピリチュアルへの関心には冷淡だった。一度は「お前の病気は前世のカルマだ」と言われ深く傷つき、それ以来丹波の言うことにはまともに耳を貸さなくなった。息子の義隆も貞子の側についた。

丹波の理解者は、或る時偶然エキストラに来ているのを見かけた東島邦子という16歳の少女だった。邦子は丹波のとりなしで『新幹線大爆破』などの映画に出演するようになる。35歳の年の差があったが、丹波は周囲に邦子との関係を隠さなかった。

邦子は津奈美里んという名前で丹波の自主製作映画『砂の小舟』の主演を務める。この作品は、その内容の過激さのために一般公開は完成から3年後の1980年まで延ばされ、単館上映でわずか二週間の限定公開のみであった。

つづく




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