以下の内容はhttps://wellwellwell.hatenablog.com/entry/2024/05/16/215627より取得しました。


最初は悲劇で二度目は喜劇(西城はヒデキでこの記事は不出来)

「二度目の東京オリンピック(2020/21)が最初の東京五輪(1964)よりもずっとショボく、二度目の大阪万博(2025)が最初の大阪万博(1970)よりもずっとしょっぱくなるに違いないように、二度目の戦争(20XX~?)も前の戦争(1931~1945)よりずっとショボいものになるんだろうか。」

 

・・・みたいなことを呟くだけならブログじゃなくてXwitter(オザケンがそう呼んでたらしい、又聞き)で十分じゃないか、と我ながら思うので、もうすこし無理してでも書きたい。

 

所謂団塊の世代団塊ジュニアの世代は「戦争を知らない子供たち」であり、戦争を知らないまま死んで行く可能性のある世代である(もちろんここでいう「戦争」とは日本が直接的な攻撃の対象となる戦争のことであり、世界全体で見れば戦争が途絶えた時代など有史以来存在しない)。

国家間の戦争を体験せず、経済的繁栄を謳歌した世代が、必ずしも優れた文化的業績を残すわけではないことを歴史が証明しつつある。むしろそのような世代が生み出したものは殺伐たる文化的不毛であった。

(上に書いた「二度目の喜劇」の中に含めるのを忘れたものに、「二度目の喜劇としてのオウム真理教事件」がある。この場合の「一度目」は「大本事件」である。)

己れの生活の凡庸さと精神の空虚さを「高度資本主義社会」やら「グローバリズム」のせいにして開き直り、人間の歴史に何の寄与もしないまま死んで行く世代とは何なのだろう。

 

吉本隆明『マチウ書試論』で有名な「関係の絶対性」という言葉について、かつて或る考察を記したことがあった。

簡単に言えば、人間が「自我」というものを絶対視し、それに囚われている限り、自己と他者、自己と世界の対立を乗り越えることはできず、「関係の絶対性」という限界に直面せざるを得ないが、自我が「無」であることを認識すれば「関係の絶対性」という問題は消失する(乗り越えるのではなく、ただ消え去る)と書いた。

今振り返ると、この考え方の至らなさに気づく。

この考え方は、吉本が『最後の親鸞で述べたところの〈往相〉について述べているに過ぎない。

 

『最後の親鸞』では「関係の絶対性」のことを「契機」という。

あるとき親鸞が弟子の唯円に、「おまえはわたしのいうことを信じるか」とたずね、唯円が「おおせのとおり信じます」と答えたところ、親鸞は「それならば千人の人を殺してみなさい、そうすれば往生することは疑いないだろう」といった。

唯円はおどろいて、「おおせではありますが、わたしの器量ではとても一人でさえも人を殺すことはできません」と答えた。そこで親鸞曰く、

「これでもわかるだろう。何ごとでも心に納得することであれば、往生のために千人殺せと言われれば、そのとおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき機縁がないからこそ殺すことをしないのだ。これは自分の心が善だから殺さないのではない。また逆に、殺すまいと思っても、百人千人を殺すこともあるのだ」

親鸞は)人間は、必然の〈契機〉があれば、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと言っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(業縁)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに言ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と言っていることになる。

吉本隆明『最後の親鸞

生きている間に戦争が起こるのも、戦争のない時代に生まれ、死んで行くのもただ〈不可避〉にうながされているのだとすれば、それを「生ききる」のが〈還相〉ではないのか。

〈往相〉の生き方にはまだ「関係の絶対性(契機)」に抗うものがある。吉本がいうところの「秩序にたいする反逆」の要素があるといっていい。

〈還相〉の生き方とは、「不可避を耐えること」である。これは開き直りではない(しかし〈往相〉からはそのように見えるかもしれないし、見えるだろう)。

 

戦争を知らない世代にとって、世界に寄与する方法があるとしたら、それは「関係の絶対性」を「生ききる」ことによって〈還相〉の生き方を示すことにしかないのではないか。

それを実践することは非常に困難であろう。それはつまり究極的に「ジタバタしない」ことを意味するからだ。ジタバタせずに「二度目の喜劇」を生ききることを意味するからだ(死にきる、と言い換えても良い)。後世から蔑まれ、馬鹿にされることを完全に肯定することを意味するからだ。

吉本隆明の生誕百年の年に、そんなことを考えてみる。

 

人間は不可避的な契機のみを生きなければならない。そこにだけ、浄土へ超出する正機がひそんでいる。

最後の親鸞、和讃より




以上の内容はhttps://wellwellwell.hatenablog.com/entry/2024/05/16/215627より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14