戦後、ただ一人の革命的(革命派的ではない)文学者太宰治は、「かくめい」について自殺の年にこうかいた。
じぶんで、したことは、そのやうに、はつきり言はなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、さうしても、他のおこなひをしたく思つて、にんげんは、かうしなければならなぬ、などとおつしやつてゐるうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。
吉本隆明『現代学生論』
『隆明だもの』(ハルノ宵子、晶文社、2023)

以前図書館で借りて読んだはずの『フランシス子へ』と『開店休業』も内容をまったく覚えていないので再び図書館で借りて、あちこち寄り道(寄り読み)しながら丸一日かけてゆっくり読みとおした。
思っていた以上にすさまじい本だった。
全集の月報に掲載されていた文章を集めただけでも相当な濃密さなのだが、吉本ばななとの姉妹対談が相当踏み込んでいて、和子夫人がそれほど強烈な人だとは知らなかったので度肝を抜かれた。
最後の著者インタビューは、インタビュアーが団塊世代の熱心な吉本信者の典型のような人で、ちょっと聞き手のエゴが出ている気がしたが、それもまあ「らしい」っちゃ「らしい」か、という気にさせられた。
身近にいた人、とりわけ家族の書いた作家の肖像ほど興味深く、同時に気をつけて読む必要のある本はないと思うが、ハルノ宵子さんの文章は「信頼できる」という感覚を与えてくれる。これは「書いていることと本人との間に食い違いがまったくなかった」(吉本ばなな談)父・隆明譲りの特質だと思った。
もう一つ、娘たちが評価しているのは、「圧倒的な仕事の質と量に加え、何の組織にも属さず、大学教授などの定期収入も、社会的保証もステータスもない中で、家族と猫を養い続けてくれた並外れたパワー」(吉本ばななが作家になってからは相当に資金的な援助もしていたというが)。
晩年に「ボケて」からの様子も赤裸々に書かれている。著者が言う通りこれは「吉本主義者の幻想を粉砕する」ようなものではあるかもしれないが、個人的には却ってこうした晩年の姿には何やら高徳の老僧の最期を思わせる尊いものすら感じた(もちろん介護者であったハルノ宵子さんの大変さは察するに余りある。隆明は最後まで介護認定を受けるのを拒み、不十分ながら独力で下着を替えていたという)。
高橋源一郎がNHKのラジオ番組でこの本を紹介していた(菊地成孔がゲストの回)。そこで何が語られていたかもう忘れてしまった(ボケてる?)のだが、それをきっかけに読んでみようと思った本なので、高橋源一郎には(十代の頃にドストエフスキーを紹介された件に続いて)再び心理的な借りができた気分である。