御大蓮實重彥先生がご自分のパソコンとスマホの故障とその後の顛末を優雅な文章で綴っておられた。
日々パソコンの挙動不審な動作や突然のフリーズに苛立ち、その度に殺意に近い情動を生じさせている自分のような卑しい人間とは違って、この静かな怒りと諦念を懐に湛えた余裕ある態度を見習わねばならぬとの思いに至らせられた次第。
それにしてもスマホの乗り換えのために御大に連日足を運ばせ五、六時間も拘束したというケータイショップの神をも恐れぬ「独占企業の殿様商売」ぶりには呆れざるを得ない。
そういえば菊地成孔も現代の<真の主人>であるケータイショップの店員の「上からマリコ」ぶりについて語っていた気がする。
二年ほど前に録画機器の不具合で新機種と交換した際に、ブルーディスクへのダビング録画可能な機種を選ぼうとしたら、店の者からやたらとHHDのみの機種を勧めてこられた。必死に抵抗してディスク対応型のにしたのは言うまでもないが、この調子だとやがて番組を録画してブルーレイやDVDにダビングするというやり方は完全に潰されるのだろうなとの印象を持った。
CDは消滅し、音楽コンテンツの鑑賞手段はサブスクに一元化され、映像コンテンツの鑑賞手段もサブスクに一元化される日が近い。
サブスクが怖いのは、供給元の一存で配信を全面的に停止できるという点で、配信を受ける側の選択の余地がないところにある。
一時、あのローリング・ストーンズの名盤「スティッキー・フンガーズ」収録の名曲「ビッチ」がサブスクで聴けなかったことがあった(今は知らない)。

つまり配信元が「このコンテンツは不適切」と判断すれば、作品を自由に事実上「お蔵入り」させることができるのだ。
こんなのはホンの一例で、現在のネット依存、スマホ依存、クラウド依存、サブスク依存社会においては、消費者は「情報乞食」「情報奴隷」の地位に無意識のうちに転落せざるを得ない。
前にも書いたが、「バージョンアップ」というのは誰にとっての「アップ」なのか。ユーザーにとっては迷惑でしかない機能がどんどん追加され、無意識のうちに何もかもが筒抜けになっている。そんな社会がもう到来している。
ラカンのいう「資本主義のディスクール」は、新製品が出るたびに次々とそれを追い求めていくような終わりのない消費に翻弄される現代人における享楽の姿を表すものらしいが、こっちが積極的に追い求めてなどいないにもかかわらず、新製品が出たらそれに追従せざるを得ないのが「バージョンアップ」なるものの正体であり、あらかじめ計算され平均化された消費者の「欲望」を資本家が好きなだけ操作し搾取できるところまで来てしまっているのが現在の「資本主義リアリズム」なのである。