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自分以外の何かになろうとする前に

以前『OSAJI』というブランドのお店の前を通った時にいい香りがして、どの商品なのか思わず店内を嗅ぎまわっていたら、それに気づいた店員さんが「もしかして、(今しているこの)香りですか?」と声をかけてくれた。「そうなんです、とてもいい香りがしたので」と答えると、「さっき別のお客様が試された香りかと思うのですが、それならこちらです」と一本の香水を紹介してくれた。

 

OSAJIでは日本的な名前のオードトワレが何種類か出ていて、私が惹かれたのは緑色のラベルが付いた『Hiba』(檜葉)という香りだった。肌で試した時、森っぽさを感じた。それもトトロ的ではなく、バンビなど古いディズニー映画に描かれそうな、まだ色の薄い靄がかった森。好き嫌いは分かれそうだけど、湿った落ち葉を踏みしめた時に匂い立つようなスモーキーさがあるように思えて新鮮だった。白樺やゼラニウムも入っているらしい。惹かれる香りに出会えることがなかなか無いので購入した。

 

その数週間後、知人から贈り物をいただいた。今年の夏、私は親の闘病と自分の体調不良で余裕なく過ごしていた。それを知っていた方で、癒されてほしいと選んでくれたのだそうだ。その気持ちがとても嬉しかった。家に帰って包みを開けたら、どこか覚えのある、でも知っているより濃厚で真っ直ぐな木の香りがした。パッケージを見たら、『hiba』と書かれていた。檜葉を使ったバスグッズだった。

 

私はその人に「最近檜葉が気になってます」などと一言も話していなかったし、その人と会う時に檜葉の香水をつけていたこともなかったのに、その偶然に驚いてしまった。私がお店の前を通る時に偶然香水を試してくれた誰かにも、私のことを想像して贈り物を選んでくれた知人にも感謝した。

 

檜葉は木のなかでも、成長するのにとても長い年月が必要な樹木らしい。また、ひのきのほうが香りや耐久性に優れていることから、檜葉には「明日こそはひのきになろう」という意味の「翌檜」(あすなろ)という別名がついているそうだ(由来は他にも諸説あるようですが)。木はすべて同じだろうと思っていたけど、個性があるのだと思った。

 

ただ、「明日こそはひのきに」っていうのは…そんな残念な言い方される筋合いは、ちょっとないかなー? もちろんひのきは王道で素晴らしいけど、檜葉は檜葉。そのままで全然OKでしょう。よし、明日こそひのきを目指せ! とかって勝手に設定されましても、檜葉からしたら「いやいや、余計なお世話だよ」という話になりますので。

 

***

自分のエネルギーが落ちている時、以前は外側にばかり目を向け、自分以外の何かになろうとしていた。好きな香りを使っても、美味しいものを食べても、それが何の足しになるんだろうと本気で考えていた。自分の感覚にもっと目を向けようと思ったのは、体調を崩すようになってからのことだ。

 

自分を「愛する」「受け入れる」などの言葉は、今の時代本当に多くの場所で目にする機会があるけれど、実際にできているかというのは難しいし、忙しいと忘れてしまう。でも落ち込んでいるような時には特に大切なことだ。本当に必要なのは、他人を目指すことでも、気にすることでも、他人からの働きかけを待ち続けることでもない。

 

では、「自分を愛する」というのは、いったいどんなことなのか。私がその答えとしてひとつ想像するのは、何か壁に当たった時に「自分にも事情があってそうなっている」と立ち止まる時間を持つことだ。出来事や悩みの背景を、見つめてみることなんじゃないかと思う(自分の背景が見えると、相手の背景もおのずと想像するようになる)。

 

エネルギーが落ちている時というのは、ただでさえ良いほうに考えられないものだ。そんな時に、自分の言い分のようなものを全無視して外から物事を眺めるだけでは、どうしても「弱い自分、うまくできない自分がいけないんだ」という見方になりやすい。たとえば、

 

  • なぜ自分は落ち込んでしまうのか?
  • なぜ自分はエネルギーが切れてしまうのか?
  • なぜ自分は不安や怖れを感じてしまうのか?

 

と考えた時、自分の外側(他人目線)からそれに答えようとすると「それは、あなたが弱いからでしょう」「それは、あなたが基準点を満たしていないからでしょう」という具合に、自分を責めるほうに傾いてしまいがちだ。そして、結果的には自分が(一方的に)悪いんだという、「ジャッジ」を下すことにもなりかねない。

 

でもそのジャッジは、必要なら他人がやってくれる(自分が人にそれをすることもあるので、お互いさまだ)。だから自分がすることはまず、自分にしか分からない事情を、簡単に放り投げないこと。これは別に、悪いことをしたのに反省やお詫びをしない、意固地になるということではない。相手に実際どう接するかというのはまた別の話で、あくまで自分の心を整理するためにやることだ。

 

自分にしか分からない事情を放り投げないとは、先ほどのような質問の答えを、自分の内側に探してみるということだ。そうすると、次のような背景が見えてくる。

 

  • なぜ自分は落ち込んでいるの?
    → (そもそも)自分のなかに理想や夢があったから。それに向かって頑張ったり、自分に期待していたからこそ

  • なぜ自分はエネルギーが切れているの?
    → (そもそも)理想に近づきたくて、いつも以上に頑張ったから。誰かに迷惑をかけたくなかったから。

  • なぜ自分は不安や怖れを感じるの?
    → (そもそも)未来の自分や誰かを守ろうと、心と体が働いてくれているから。

 

この作業は、宝探しみたいなもの。たとえば、理想や夢を自分の内に描ける純粋さがあるなんてそもそもいいことじゃない? と思えてこないだろうか。エネルギーが切れるのは、そのぐらい向上心や他人への優しさがあるということ。不安になるのは、自分の未来が悪いものにならないよう、体が守ろうとしてくれていることの裏返しだ。このように挙げていくと、もしかしたら予期しなかった長所を発見することになるかもしれない。

 

出来事を「自分には何もない」前提と眺めるのと、「自分にはある」と知ったうえで眺めるのとでは、身体の感覚も変わってくる。身体は、頭よりはるかに単純で正直だ。自分を責めている時、呼吸は浅く、体温は下がる。けれど、ちゃんと理想を持って自分を守りながら日々を進んでくれているのだと自分自身への感謝を感じた時、体は温まり、鼓動は落ち着いていく。

 

「自分を愛する」ということは、きっとそういうことなのではないだろうか。相手と同じように、自分にもそうなった「背景」がある。そのことを自分が自分に許すと、相手にその背景をあえて説明するかしないか、または説明して受け入れてもらえたかどうかなどは二の次になってくる。そして不思議だが、その許しを続けていくと、他人への見方も変わる。誰もがその人なりの「背景」から、最善でやっているのだろうと一度は想像するようになる。

 

この記事を書いていて思い出したのだが、以前、営業をする時の考え方についてどこかで耳にしたことがある。営業の仕事をする時はお客さんと「対面」になるのではなく、「同じ方向を見る」といいよ、というものだった。今思えばそれは営業だけではなく、また他人に対してだけでもなく、自分に対しても言えることなんじゃないだろうか。常に自分の目の前に立ち、「なんであなたは、いつもそうなの!」と言い続けても、前には進めない。それなら自分の横に座り、「だよねー、わかる」「あなたのやってきたことは、私がちゃんと知っているよ」と同じ方向を眺めたほうが、楽しく進んでいけるはずだ。

 

こう書く私も、常に自分の隣に座れているわけではないし、できたりできなかったりの繰り返しだ。それでも、真冬の冷たい部屋に自分を放置し、ただ春が来るまで窓の外を眺めているようなことはもうやめようと思っている。部屋のなかを探せば、体を温められるものが見つかるかもしれない。それを探せるのは自分だけだ。他の何者かになろうとする前に、やることはたくさんある。




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