今週のお題「大人になったなと感じるとき」
昔、起きることのすべてを自分起点でとらえていた時期があった。親が喧嘩した時、大事な日に天気が悪い時、何かうまくいかない時、そのほとんどを「自分が何か悪いことをしたからこうなったんだ。もっとできたはずなのに」と思っていた。
それと同時に、未来に起きることは何でも自分でコントロールできると半ば本気で思っていた。自分で未来を握りしめるというのか、とにかくこれから起きることを細かく想定し、関わる人へも幾度となく確認したりして、たくさん期待もして、「想定したこと以外は起きない未来」を作るのに必死だった。

でも、どんなに計画しても、その5年後に計画通りの未来を生きていたことなんてなかった気がする。5年前の会社は消え、その代わりに予想すらしていなかった商材が誕生していたり。元気だった人が病院に入ったり、会えない距離に行ってしまったりする。夢中だったことがいつの間にか色褪せ、社会はどんどん変わる。
自分起点ですべてを捉えていた時は、頭で想像できる範囲だけで生きていたと思う。でも、生きる時間が長くなれば長くなるほど、それって限界だよなと思う割合が増えていく。人や場所とのご縁も、運も、天災も病も、自分では精一杯やってもどうにもコントロールできないことが沢山ある。そちらの方が多いかもしれない。自分一人でできることなんて本当に限られているのだと気づく。
でもそれに気づくと、未来が分からないことだらけになって不安なはずなのに、不思議と肩の力は抜ける。みんな、生きていれば同じ。自分だけじゃない。だからだめな時は誰かに頼ったっていいし、未来に任せてもいい。分からないことを焦って分かろうとしなくてもいい。絵の具は白と黒だけと決めていても、それを人に貸してグレーになってしまった時に、許せる日もやって来るんだと思う。
「さあ、この日から大人です!」みたいなことって、無い。実際、20歳を迎えた頃の自分なんて赤ん坊みたいなものだったし、自分の力で生きるようになってからすべてが始まった。それを早い段階からやっている人はそれだけ成熟が早いのかもしれないし、ゆったりの人もいる。でも、生きている年数は成熟とは無関係だ。
そんな感じで、私にとっての「大人になる」とは「自分の無力さを知る」ことと結構イコールになっている。それがあるからきっと、他人の優しさをありがたく思う。状況をとりあえず受け入れようとか、不確定でもまぁいいか、と許せる。
今は、自分が家で過ごす時間についても思うことがある。部屋の中が温かいこと、誰かと携帯で連絡が取れること。毎日食べている物も使っているシャンプーも全部、世の中の誰かの存在があるから自分の手元にある。確かに、自分のための算段や見通しは大事だけど、自分の力の及ばない範囲を眺めてみると、それぞれの人がそれぞれの経験をもって、何かを循環させているということも見えてくる。

『鬼滅の刃』が大ブームになっているけど、あれなどはもっと大きな循環、「命を繋ぐ」がテーマになっている。キャラクターの中には眩しいほど真っすぐそのテーマに向かう者もいれば、己の怖れや名誉欲の中で、受け継ぐことの本質を少しずつ学んでいく者もいて、誰に感情移入できるかが人によって違う所も面白い。そして鬼との闘いのシーンでは、「未熟」と「成熟」について考えさせられる。
すべてをコントロールし、意に沿わないものを一切排除する鬼。一方、自分一人でできることの限界と、自分の命は誰かが繋いでくれたものだということを胸に、目の前のことに忠実に向かっていく鬼殺隊。自分ですべてをコントロールしたいというのはエゴでしかなく、他人を信じ、自分を信じる方が何倍にもなって還ってくるのだと感じた。
社会の流れや誰かの采配に乗ってみたり、やるだけやって天に任せてみたり、他人を信頼してみると、自分の想像を超えた所で発見があったりするものだと思う。「今は分からなくてもいいか」と許して、とにかく日々できることをやろうと結果を手放している自分に気づいた時、少しは大人になったのかもしれないと思う。