これまでのあらすじ
元亀二年九月十二日、織田信長による比叡山焼き討ちが幕を開けた。
芦浦観音寺の少年・海(かい)は、明智光秀との危険な密約を武器に、地獄と化した山中から命を救い出す「出口」を作り出そうと奔走する。一方、比叡女の澪(みお)は避難列から遅れた子供を救うため、降り注ぐ火の粉の中で孤独な戦いを強いられていた。
その頃、炎上する根本中堂では、老僧・実賢が八百年(当時)の伝統「不滅の法灯」を懐に抱き、刺客の刃を掻い潜って脱出を図る。それぞれの「嘘」と「覚悟」が、燃え盛る八王子山の血路で交錯しようとしていた。
海(かい): 芦浦観音寺の少年。光秀から得た通行許可を盾に、冷徹な判断力で比叡山の「命」と「嘘」を救おうとする。
澪(みお): 山門に仕える比叡女。過酷な状況下で慈愛を失わず、逃げ遅れた人々を支えながら、運命の濁流に立ち向かう。
実賢(じつけん): 煩悩にまみれた好々爺。最期の瞬間に「比叡山の魂」である不滅の法灯を託すべく、命の火を燃やす老僧。
第十八話 装裾一触
八王子山への道は、逃げ惑う僧侶たちと、上空から降り注ぐ火の粉で埋め尽くされていた。誰もが経典の束を抱えていたり、すでに深手を負っている者もおり、もはや存在そのものが消えかかった老人に手を貸す余裕のある者などいない。
老僧・実賢(じつけん)の足取りは、一歩ごとに重くなっていく。脇腹からの出血は墨染めの衣をどす黒く染め、滴る血が石畳に点々と模様を作っていた。視界は白く霞み、耳元では自分の心音だけが、早鐘のように鳴り響いている。
(……ああ、ワシもこれまでか……)
実賢の脳裏にこれまでの人生の記憶が走馬灯のように蘇る。
(そうだ、お妙の尻は何ともいえぬ柔らかさであった。)
(おお、弥生の乳の揺れはこの世のものとは思えぬ美しさよ。)
現世(うつしよ)と浮世(うきよ)の境界も曖昧になりかけており、死の間際でさえ煩悩まみれの思考のみが浮かぶ。だが、手元で揺れるかすかな橙色の光だけは妄想の中でも離すことはなかった。
(もう思い残すことはあるまい)
(いやあるとすれば澪よ、澪ちゃん。心残りじゃあ、あと五年もすればそれはそれは立派な実りになろうかというもの…)
朦朧とする意識の中、実賢の目に一人の少女の姿が映った。
(……あれは……)
泣き叫ぶ稚児の背をさすり、必死に周囲を鼓舞しながら、避難列へ誘導している少女。
「……み、澪か」
その声は、風にかき消されそうなほど弱かった。 しかし、澪は気付いた。 自分に伝統の尊さを説き、不滅の未来を信じさせてくれた、あの温かな老僧の姿に。
「実賢様!?」
駆け寄る澪。実賢の体は、もはや杖だけでは支えきれず、彼女の腕の中へと崩れ落ちた。 かつて女人堂で見た「慈愛に満ちた好々爺」は、今、自らの命という油を燃やし尽くそうとしている。
比叡山の頂、根本中堂から、燃え盛る火の中を潜り抜けてきたという老僧の衣は無惨に焼け焦げ血まみれになっている。失血により顔は土気色になっており、もはや生者とは思えない容貌になっていた。
「そうか、御仏はワシの願いを叶えてくれたのか、ついに極楽浄土へ到達したのだな。」
「何をおっしゃいますか、現世(げんせ)の澪です。実賢さま、お気を確かに!」
実賢は朦朧としながらも手元の灯籠に意識を向けた。彼は自らの命を振り絞るようにして、小さな、しかし厳かな細工の施された手持ち灯篭を、澪へと差し出した。これが、比叡山の正当性を示す最後の希望であった。
「これを……持っていき、なさい……」
「実賢様、これは?」
「……伝教大師(最澄)様より八百年、一度も絶やすことなく守られてきた灯(ひ)。この山が焼けても、この灯が消えぬ限り、叡山は死なぬ……」
「まさか… このような大事な灯火、私にはとても…」
「学僧も堂衆もみな死に絶えてしもうた、ワシもここまでじゃ。頼む、今この灯の意味を理解し、託せるのはそなたしかおらん。」
澪は跪き、震える手でその灯篭を受け取った。
「わ、分かりました。私の命にかえても」
掌から伝わる熱は、周囲を焼き尽くす殺意に満ちた火とは違う、静かで、どこか慈悲深い温もりだった。直後、老僧は満足げに大きく息を吐いた。灯籠を握りしめている澪の両手、その上に添えられていた左手に連動して、老僧はそのまま崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「じつけんさまあああああ!!」
その場にうずくまる澪。
「行こう、澪。泣いている暇はない」
背後から声をかけたのは、海であった。
「いや、その、ちょっと待ってください。海様。」
「どうした!早くしろ。感傷に浸るのは後だっ!!」
苛つく海はつい怒鳴ってしまった
「ち、違うんです!海様。これ…を」
海は、涙が溢れてとまらない澪の目が見つめる先を追っていって絶句した。
「えっ?、これって…!!」
なんと、驚くべきことに老僧は澪の着物の裾から右手を差し入れ、内腿(うちもも)をまさぐったまま絶命していたのだ。
場の空気が凍り付く。遠くで燃え盛る炎の地響きのような音と、子供たちの鳴き声だけがあたりに響き渡る。
澪は声を殺して泣きながら、ゆっくりと老僧の右手を裾から引き出した。
そして無言のまま遺体を近くの木の陰までものすごい力で引きずっていき、そっと瞼(まぶた)を閉じてあげた。
さらに両手を胸の上で組むように形作ると、左右からぎゅーっと目一杯挟み込んだ。何度も、何度も。

組んだ手が、もう二度とほどけないように、と…。
澪は仏に対し合掌をしながら
「生前からこのような…お方でした。」
海に紹介するような、なにか自分に言い聞かせているような声色だった。
老僧の死に顔は穏やかで、とても満足げな表情のようにも見えた。命がけで繋いできた法灯を託せた安心感からか、あるいは…
海はバツが悪そうに…
「なんだ、その………。怒鳴って悪かった。」
「構いません、このお方はたった今極楽浄土へと召されました。」
「澪、なんか怒ってる?」
「いいえ!心の底から誇りに思っておりますっ!!」
(怒ってるな…)
澪は、自分の所業では無いはずなのに、今まで生きて来た中で最大級の恥ずかしさを感じていた。次々と波のように襲い来る驚き、敬意、慈愛、不安、決意、悲しみ、呆れ、怒り、そして羞恥、自分でもどう感情を整理したらいいか分からないようであった。ひとまず涙は止まっていた。
立ち上がって裾の泥を乱暴に払うと。改めて、託された灯籠を握りしめた。
「お待たせしました。さぁ急ぎましょう」
「お、おう…」海は澪と目を合わせることができなかった。
続く
次回予告 第十九話:北へ導く灯
業火の八王子山で、海は満身創痍の詮舜と再会する。僧兵たちを死地へ追いやり、自らは「横」へと駆けて地獄を抜けた知略の僧。二人は私情を捨て、比叡の「種」を北へと導く。
だが、略奪に狂う織田軍の影はすぐそこに迫っていた。木の上から海が目にしたのは、安住の地となるはずの仰木の里を包む絶望の赤。
「……仰木も、燃えている」
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1. 「不滅の煩悩」が「不滅の法灯」を救う矛盾
実賢が死の間際に見た走馬灯は、経典の文句ではなく「お妙の尻」や「弥生の乳」でした。一見、聖域を汚す不謹慎な描写ですが、これこそが実賢の説く「聖俗混淆(せいぞくこんこう)」の究極の形です。
彼にとって「生」とは、理屈ではなく肌に触れる体温そのものでした。八百年(当時)続く「不滅の法灯」という抽象的な概念を、死にゆく彼が守り抜けたのは、それが彼にとっての「生の実感(煩悩)」と地続きだったからに他なりません。
「最も汚れた手で、最も清らかな火を守る」。この泥水の中から蓮の花を咲かせるような「濾過」の教えを、彼は自らの最期をもって証明したのです。
2. 「羞恥」という名の生存スイッチ
実賢の最期の「所業」によって、澪の心には悲しみを超えた「感情の濁流」が押し寄せます。 遺体の右手を左右から「ぎゅーっと挟み込む」動作は、実賢への呆れ、怒り、そしてこう怒鳴りつけたかったことでしょう。
「何さらしてくれとんじゃいぃ!!このクソ爺!!。めっちゃ好きやったのに……(関西弁ver.)」
されど相手はこの世にはおらず、怒りのぶつけどころはもうありません。
やり場のない情愛が混ざり合った、澪なりの精一杯の弔いです。
本来なら悲しみに打ちひしがれ、立ち止まってしまうはずの場面。しかし、実賢が遺した「羞恥」という強烈な刺激が、彼女の涙を止め、生き抜くための「怒りという名の活力」を注入しました。
3. 無敵の少年を沈黙させる「人間の業」
鉄の封鎖を突破し、戦場を「茶番」と切って捨てた海。そんな彼が、澪の気迫と実賢の執念(?)に気圧され、目を合わせられなくなる「タジタジ感」は、物語における貴重な救いです。 知略や武力では測れない「人間の業」の深さを前に、海は初めて、自分たちが動かしている「盤上」には載らない、生身の人間たちの凄まじさを思い知らされたのかもしれません。
4. 実賢の死に顔が語るもの
「穏やかで満足げ」なその表情は、法灯を託せた安堵か、あるいは5年後の澪(極楽の姿)に触れた悦びか。 「装裾一触(鎧袖一触をもじった造語)」。その一触れが、絶望の淵にいた澪を突き動かし、比叡山の火を未来へと繋げました。実賢は、文字通り自らの煩悩を燃料にして、最期の「救済」を完遂したのです。
漢(おとこ)の生き様、死に様を見届けて頂けたでしょうか?
みなさん薄々感じてらっしゃると思いますが
そうですね、一番好きな回であり、一番好きなキャラ実賢様です。
あのシーンとあのシーンをたくさん描いて挿絵にしたかったのですが、生成AIさんにことごとく断られてしまいました。万が一コミカライズなどの機会がありましたら、作家の先生にお願いしましょう。
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