これまでのあらすじ
元亀二年九月。織田信長による比叡山焼き討ちが目前に迫る。近江の芦浦観音寺住職・慶順は、信長側の先鋒・蜂屋頼隆と、徹底抗戦を叫ぶ僧兵の巨頭・豪盛を寺に招き調停を図るが、互いの狂気が衝突し、信長と山門の板挟みとなっていた。両者とも「明朝、自陣に恭順の証を届けよ」という物理的に不可能な要求を慶順に突きつける。慶順は知略に長けた少年・海(かい)を使い窮地を脱しようと試みる。
第十三話 鉄の封鎖
元亀二年 九月十一日 日暮れ 坂本の陣
芦浦観音寺での緊迫した三者会談を終え、蜂屋頼隆(はちや よりたか)は、夕闇に包まれつつある坂本の陣へと戻った。 坂本の町は、もはや門前町としての風情を失っていた。街道のあちこちに「拒馬(きょば)」や「逆茂木(さかもぎ)」が突き出され、篝火の下で研ぎ澄まされた槍の穂先が不気味に光っている。
頼隆は冷酷に指示を出す。 「領民どもが町中に逃げ隠れすると手間だ。今のうちに八王子山へ追い込んでおけ。山を焼けば、鼠もろとも灰になる。それが一番効率が良い。上様の御意向だ」
兵は市街地を囲うように配置されており、門前町全体を山門に与する者として殲滅するための殺意に満ちていた。 包囲部隊の巡回を終えた蜂谷は馬を降りると、すぐさま包囲の警備責任者である部将を呼びつけた。
「いいか、よく聞け」 頼隆の声は、低く、殺気を帯びている。
「芦浦観音寺は信長公への恭順を誓っておる。……が、あやつらが山門(延暦寺)への情に流され、密かに書状を届ける可能性は捨てきれん。もし、山門にこちらの布陣や攻め口が露見すれば、無用な血が流れることになる」
頼隆は比叡山の深い木立を見上げた。そこには、魔王の軍勢を迎え撃とうと息を潜める、数千の僧兵たちの気配がある。
「町の者共が大方山手の方に逃げたら一帯を封鎖せよ。以降坂本から山手に向かう者は、たとえ僧であろうが、女子供であろうが、一人残らず阻止せよ。命に従わぬ者は、その場で斬り捨てて構わん。 蟻の一匹、猿一匹たりとも、この包囲を通してはならぬ」
「はっ! 承知いたしました!」
蜂谷の脳裏には、数日前に見たあの影が焼き付いていた。海によく似た何者かが、山壁を猿のごとく駆け上がっていったあの残像。陣所にいた海は「神猿を見たのではないか」と平然と嘯いたが、頼隆はあれが自然の獣などではないことを、武人の直感で理解していた。
(神猿だと? ふん、小賢しいわ。もしあの小僧が我々を謀るようなら、その謀もろともこの包囲で握り潰してくれるまで……)
この瞬間、坂本は文字通り「鉄の壁」となった。主要な街道だけでなく、普段は地元の民しか使わないような細いけもの道、枯れ沢の跡に至るまで、織田の哨戒兵が配備された。
この鉄の封鎖網を、一通の密書を抱えて突破しなければならない者がいた。海(かい)である。 海は、芦浦観音寺の住職・慶順から託された「命運を握る書状」を懐深く差し込み、坂本の外れにある湿地帯に身を潜めていた。
(……正面から行けば、一町(約109メートル)も進まぬうちに矢を射掛けられるな)
海の瞳は、暗がりの中で冷たく冴え渡っていた。彼は武士のような力任せの突破は選ばない。彼が信じるのは、湖と山が織りなす「地形」そのものだった。 坂本の背後に控える比叡山は、急峻な崖と石垣が入り組んでいる。織田の兵たちが「道」を塞いでいるのなら、自分は「道ではない場所」を行くまでだ。
(蜂谷様、あんたの部下たちはなかなか優秀だ。だが、あんたが忌々しそうに睨んでいたあの壁こそが、俺にとっての『道』なんだよ)
海は泥にまみれた草鞋を脱ぎ懐にしまい込むと、音もなく目の前の巨大な石垣へと取り付いた。
荒々しくも堅牢な「野面(のづら)積み」である。
「……坂本の町を囲うのは、穴太(あのう)の職人たちが積み上げた石垣だ。織田の兵たちは、この壁を背にすれば背後は安全だと信じ切っている。」
武士たちが馬で駆け抜け、槍を振るうための「壁」は、海にとっては指先ひとつで体重を預けられる「梯子」に過ぎない。
自然石の複雑な噛み合わせが生む隙間に指をかけ、闇に紛れて垂直にせり上がっていく。
「――誰かいるぞ! あそこだ、石垣の上だ!」
不意に、下方から鋭い怒号が飛んだ。篝火が揺れ、石の凹凸に海の影が長く伸びる。
「止まれ! 矢を射よ!」
ヒュッ、という乾いた音が空気を切り裂く。海は即座に岩の背後に身を隠したが、一矢が彼の左肩を浅く掠めた。
「くっ……!」 焼けるような激痛が走る。

墨染めの衣がじわりと湿り、熱い血が腕を伝った。 「追え! 逃がすな! 山側へ回り込め!」 松明の光が波のように押し寄せ、数人の足軽が崖を這い上がってくる。海は痛みを噛み締め、垂直に近い岩肌に指をかけた。常人ならば絶望するような絶壁を、彼はまさに「猿」のように、手足の指先だけで掴み、跳躍し、崖上の藪の中へと姿を消した。
数刻後、蜂谷頼隆の前に、息を切らした足軽たちが平伏していた。
「逃した……だと?」
頼隆の低い声が、夜の空気を凍らせる。
「申し訳ございませぬ! 岩場に追い詰めたのでございますが、人間とは思えぬ速さで崖を駆け上がり……その、山の中に消えてしまい……」
足軽の一人が、震える声で言い訳を絞り出した。不手際を咎められ、手打ちにされるのを恐れたための苦し紛れの言葉だった。
「……あれは、おそらく人ではございませぬ。以前、芦浦の小僧が申しておりました日吉の神猿に相違ございませぬ! 矢を受けたはずが、一滴の血も残さず消え失せたのです!」
「神猿、だと……?」 頼隆の顔が怒りで赤黒く染まる。
小僧に担がれた言い訳を、あろうことか自分の手下が繰り返したのだ。
「馬鹿者が! 猿が墨染めの衣を着て、密書を運ぶか!」

蜂谷は手近な床几を蹴り飛ばした。だが霧に閉ざされ、これから暗くなる比叡山に、今さら追手を差し向ける余裕はない。
(あの小僧め……やはり山へ繋がっていたか。よかろう、ならば山ごと焼き尽くしてやるまでだ)
海は肩の傷をきつく縛り、痛みを押し殺して闇の深淵へと足を踏み入れた。 彼が目指すのは、豪盛の待つ比叡の陣か、それとも光秀・頼隆の待つ坂本の陣か。 鉄の封鎖を越えた少年の跳躍が、矛盾する二つの希望を繋ぐための、最も長い一日の幕を開ける。
続く
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<解説>
織田軍の「殲滅戦」と海が突いた「死角」
本話における蜂屋頼隆の布陣は、単なる拠点の確保ではなく、坂本という町全体を「袋の鼠」にするための殲滅戦理論に基づいています。これが理論構築されたのは18~19世紀の欧州ですが、考え方としては当時からあったと思われます。
面の封鎖: 頼隆は街道や裏道といった「線」の守りだけでなく、坂本一帯を全周包囲し、物理的な障壁(拒馬・逆茂木)と哨戒兵の配置によって、情報の出入りを完全に断つ「面」の封鎖を試みました。これは、信長が意図した「比叡山の完全孤立・殲滅」を軍事的に忠実に履行した形です。
海が突いたのは、この死角です。
垂直の突破口: 海は哨戒兵が監視する「道」を避け、重装備の兵士や武士が到底登ることを考えない「絶壁」を敢えて選択しました。これは、当時の武家戦術(集団戦・陣形重視)に対する、個人技能(高い身体能力という設定)による非対称的な対抗策です。
神猿(まさる)の隠れ蓑: 足軽たちが「あれは人ではない、神猿だ」と報告したのは、神仏を重んじる信仰心だけではありません。自分たちの任務不履行を、超自然的な力のせいにしなければ、軍律による処罰から逃れられないという兵士の防衛本能が働いた結果です。
蜂屋頼隆の怒りは比叡山への憎悪に転換され、翌朝の「殲滅」への決意をより徹底したものに変質させていくことになります。
ここから比叡山の僧侶・詮舜の活躍が始まります。
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