あらすじ
戦国時代の琵琶湖、少年船頭・海(かい)は志那の港で明智光秀と出会い、比叡山焼き討ちという激動の渦中へと巻き込まれていく。芦浦観音寺の差配のもと、海は戦火の迫る湖上を駆け、自らの居場所と進むべき道を探し始める。
第三話 堅田の掟
元亀二年九月 晩夏 芦浦観音寺
比叡山を包囲する織田軍の気配が、湿り気を帯びた風に乗って坂本まで届き始めていた。 芦浦観音寺の奥座敷、住職の慶順(けいじゅん)は、庭に置かれた手水鉢に落ちた一枚の葉を見つめていた。その背後に、旅装を整えた海(かい)が音もなく控える。
「慶順様、これより明智十兵衛殿を堅田(かたた)までお送りして参ります」
慶順は振り返らず、静かに口を開いた。 「海よ。なぜ十兵衛殿が、あえて堅田をその目で見ようとしているか分かるか」
「……比叡山への物資を断つため、かと」
「それだけではない。堅田は『湖族』と呼ばれる誇り高き自治の民が治める地。彼らはどの権力にも膝を屈さぬ代わりに、琵琶湖の全域に網の目のような知略と情報網を持っている。いわば、この湖の『門番』よ」
慶順は立ち上がり、海の方を向いた。その眼光は、単なる僧侶のそれではない。
「信長公が山を焼くというのなら、その『出口』を塞ぐのが兵法の常。だがな、十兵衛殿の真意は、堅田を潰すことではなく、彼らを織田の『盾』として取り込むことにある。堅田が味方につけば、浅井・朝倉の援軍は湖から近づけぬ。逆に堅田を怒らせれば、包囲網は内側から崩れるだろう」
海は、慶順の言葉の重みを噛み締めるように俯いた。
「十兵衛殿は理を解する御仁だが、織田家の中には力でねじ伏せんとする者も多い。海、お前は船頭としてだけではなく、十兵衛殿の『耳目』となり、堅田の誇りと織田の威光がぶつからぬよう、その間を漕ぎ分けよ」
「しかと心得ました。……堅田の掟、そして観音寺の利、守り抜いてみせます」
海の背中を見送りながら、慶順は再び手水鉢に目を落とした。水面に広がる波紋が、やがて来る未曾有の戦火を予見しているようであった。
明智光秀の命を受けた海(かい)は、一団を乗せて北の要衝・堅田(かたた)へと小舟を走らせた。 光秀は、包囲網の「穴」となりかねない堅田の動向を、その目で確かめようとしていた。

堅田の港に足を踏み入れるなり、荒々しい怒号が耳を打つ。 「ふざけるな! 志那の小作法を堅田に持ち込むんじゃねえ!」 「何を! これは芦浦観音寺の正式な差配だぞ!」
見れば、荷揚げ場の一角で、芦浦所属の古参船乗り・伝蔵と、堅田湖族の若手・猪助が胸ぐらを掴み合っていた。周囲には野次馬が集まり、一触即発の空気だ。
海は光秀に一瞥(いちべつ)をくれると、迷わず二人の間に割って入った。 「またかよ伝蔵さん。やめな、二人とも。湖が荒れる前に喉を枯らしてどうするんだ」
「海! お前からも言ってやれ、この堅田の業突く張りに!」
「うるせえ、これは俺たちの『湖の掟』の問題だ!海っ!お前ぇも知ってんだろ!」
海は呆れたように笑い、まず伝蔵の肩を叩いた。
「待て待て、伝蔵さん、観音寺の差配は正しい。でも、ここは堅田だ。この桟橋の杭一本打つのに、彼らの一族がどれだけの血を流したか知ってるだろ? 筋を通すなら、まずは『惣(そう)』の頭領に掛け合ってからだ。」
次に、猪助に向き直る。 「猪助。あんたの言い分もわかる。でも、今この瞬間も美濃から織田の軍勢が雪崩れ込んでいる。意地を張って芦浦と揉めたら、思う壺だ。比叡山の次に焼かれるとしたらこの堅田の蔵だぞ。今は『掟』より『荷』を優先させる時だ」
海の、相手の立場を尊重しつつも冷徹なまでの現状分析に、二人は毒気を抜かれたように手を離した。
「……ちっ、海の野郎、大人びやがって」
「悪かったな。……猪助、さっさと荷を降ろせ。」
一部始終を背後で見ていた光秀は、静かに感嘆の息を漏らした。
「見事な差配だ。武力ではなく、その土地の『理』と『利』で人を動かすか」
海は光秀の前に膝をつき、借りていた小刀を差し出した。
「明智様。お約束通り、堅田までお連れしました。この刀、お返しします」
光秀は刀を押し戻し、少年の瞳をじっと見つめた。
「……いや、そのまま持っておくがよい。海、お前はただの船頭ではない。いつか、その刃が多くの命を救う『証文』になる時が来るだろう」
そこへ、別の船で到着していた佐久間信盛が歩み寄ってきた。光秀と信盛は、堅田の複雑な入り江を見つめながら低い声で話し始める。
「十兵衛殿。堅田は厄介ですな。自治意識が強すぎて、我らの号令が届かぬ。比叡山への物資供給を断つには、ここを完全に封鎖せねばなりませぬが……」
「左様。しかし力で押せば彼らはその気性ゆえ、余計に制御不能となる。この空白地帯をどう埋めるかが、焼き討ちの成否を分けましょう。ひとまずこの十兵衛、惣の頭領に掛け合い、兵の駐屯を承諾させておきます。」
「うむ、頼む。俺が出ると間違いなく衝突するだろうからな。」
「お戯れを…」
信盛の苦笑いを見送った光秀は、帰り支度で船の固定綱を外しかけていた海に、再び声を掛けた。
「海、堅田の頭領……確か、居初(いそめ)だったか。邸宅の場所は分かるか?」
「ああ、居初の親分のお屋敷なら、その浮御堂の北です。案内しましょうか?」
「よろしい、頼む。――織田弾正忠信長様が家臣、明智十兵衛尉光秀(おだだんじょうのちゅうのぶながさまがかしん あけちじゅうべえのじょうみつひで)が来たと伝えてくれ」
海は一瞬、何もない空中を見上げ、その長い肩書きを頭の中で反芻してから、光秀に向き直った。
「長いです」
「……そ、そうかすまぬ。明智光秀が来た、でよい」
二人は浮御堂のほど近く、堅田の屋敷群の中でもとりわけ重厚な構えの門前に辿り着いた。居初(いそめ)邸だ。
門前で落ち葉を掃いていた使用人に海が声をかける。
「お勤めご苦労さま。芦浦観音寺の海だ。住職の使いで、明智様をお連れした。主(あるじ)を呼んでくれるか」
使用人が慌てて奥へ消え、ほどなくして二人の男が姿を現した。

「海よ、ご苦労であった。お前はここまでで良い。……居初殿、お待たせした」
光秀に一歩進み出たのは、この邸宅の主、居初であった。重々しく頷くその隣には、剃髪しつつも、獲物を狙う鷹のような眼光を隠さない男が立っている。
居初が邸内へ光秀を促す。その刹那、ふと居初が門の脇に立つ海に気づき、無言のまま片手を上げた。「よくやった」という労いか、あるいは「ここからは大人の時間だ」という合図か。
海は、それに応えるように短く会釈を返した。
三人の背中が、邸内へと吸い込まれていく。
(……居初の旦那の隣。あれは確か、猪飼昇貞(いかいのぶさだ))
海は門扉の陰から、去りゆく背中を冷めた目で見送った。
猪飼は志賀の陣以降、織田に恭順の意を示しながら、その手には領土を守るための槍を片時も離さない。居初は湖族の矜持と実利の間で、慎重に風向きを読んでいる。
海が鼻を鳴らして蹴り飛ばした小石が、門扉に当たって乾いた音を立てる。
そこには、かつての戦火が刻んだ古びた焦げ跡が残っていた。
海は、以前居初の頭領が呟いていたことを思い出した。
(昔、山門に焼かれた恨みは忘れんが、信長に魂まで売るわけではない)
――大人は大人で、いざという時の逃げ道を、こっそり掘り始めてるってわけだ。
この時の密談が、数日後、燃え盛る比叡山から逃れ、行き場を失った数千の「種」を救い、そして同時に見捨てるための、残酷な境界線になることを、少年はまだ知らない。
続く
次回予告 第四話:比叡女(ひえいめ)の祈り
女人禁制の結界外に生きる「比叡女」の澪(みお)は、霧深い山中で殺気立つ僧兵たちの軍備を目撃し、戦慄する。 祈りの静寂が軍装の響きに塗り替えられていくなか、彼女は麓の故郷を襲うであろう「嵐」の予兆を感じ取っていた。
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<解説>
堅田と言えば対岸の守山とを結ぶ琵琶湖大橋が有名ですね。
(撮影:和歌地ビール)
もちろんこの物語当時には橋はありません。南湖と北湖を結ぶ狭隘部(海峡?湖峡?)に位置するので、南北の水上交通・交易、対岸への渡しなど、需要拠点でした。通行料の徴収や、なんなら海賊行為も余裕だったでしょうね。
今でも琵琶湖大橋を利用する車は有料です。
このあたりの記事はすべて堅田での話題です。
当時の堅田中心部は琵琶湖大橋の位置からかなり南に下った場所だと推測されます。
挿絵その1の『琵琶湖の古地図』っぽいのは琵琶湖南湖におけるそれぞれの位置関係を示しています。
近江八景 の一つ、『堅田の落雁(歌川広重)』を観てみましょう
これは生成AIではなく、ガチの浮世絵です。
画面左下あたりに浮御堂が描かれていますよね
船の進行方向を見るに、浮御堂の南側に港があったのだろうと推測しています。
挿絵その2は惣の頭領・居初邸での4人の描写
『惣』は今でいうギルドみたいなもの。
( ´-`).。oO( じゃあ頭領は『ギルマス(ギルドマスター)』か・・・)
堅田港であることをアピールするために、これ見よがしにAIに浮御堂を描き入れてもらいました。
歴史的にも、各時代の権力者や宗教勢力の支配下で揉まれまくったでしょうから、堅田の外交力・交渉力は相当高かったのではないかと推察します。
( ´-`).。oO( さらに昔には比叡山が堅田を焼き討ちしたこともあるそうな)
この当時(元亀二年:1571年)は比叡山、本願寺などの宗教勢力。朝倉氏、織田氏などの軍事勢力が支配権を奪い合っているような状態でした。
織田氏が力を付けてきたので、表向きは従いつつ、他勢力との均衡を保ちながら独立を維持している状態を想定しています。
後半の伏線になります。
明智光秀の名乗りのオチは現代風に脚色しています、お偉いさんの名前をあんなふうにツッコミいれたら、首が飛ぶ(物理)可能性もありますので皆様ご注意下さい。
後半に登場した猪飼昇貞(いかいのぶさだ)とは実在の人物で、志賀の陣、比叡山焼き討ちの前後で明智光秀の家臣として仕えています。「本能寺の変」後に文献から消えているので、おそらく光秀に従い、山崎の戦いで討ち死にしたのではないかと推測しています。
物語の時点では堅田の独立を守りつつ、まだ光秀を値踏みしているような設定。
大人の事情は複雑ですね……
居初(いそめ)の頭領も実在ですが個人名の記録が残っていなかったので、ぼかしています。むしろ現代では邸宅の方が有名ですね。
上記二氏に馬場氏を加えた三氏で堅田の殿原衆(とのばらしゅう)と呼ばれる上層階級です。
あまり登場人物を増やすとややこしくなるので、ひとまず堅田の重鎮2人を覚えておいて下さい。
次は比叡山側の主人公(ヒロイン)の視点へ舞台が移ります。
お楽しみに
始めから読むなら


