この記事はtwitterの読書家界隈に定着した文化であるところの#名刺代わりの小説10選を輸入して作られたものである。140字の牢獄に囚われたtwitter民たちが、わずか10作の小説のタイトルに託した自己紹介、または決意表明だ。
本記事はそうした10選に加え、裏10選を選定して記事にしたものである。
ブログとtiwtterでは媒体特性が異なるので、もしかすると長年このブログをお読みいただいている方は、私以上に私の読書の好みをご存知かもしれない。
また、このブログの読者の殆どを占めるgoogle検索流入で来た方には、まさしく書き手の自己紹介の代わりになるかもしれない。
いずれにせよ、ああ、それ行くならそっちも行くよな、とか、そらそれが好きならそっちは合わないわな、などというツッコミを入れながら酒の肴かお茶請けにでもしていただければ幸いである。
なお、いずれの10選も各別の言及がない限り順不同である。
名刺代わりの小説10選
ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』
トップ3は恐らく不動。
それでもナボコフだとどの作品かで悩むし、プルーストなんてのはある意味フローベールの系列店だから、この作品こそベストオブベストなのかもしれない。
それでも初読時には、「まぁ、そこそこ?」くらいにしか思わなかったから不思議なものだ。
ウラジーミル・ナボコフ『淡い焔』
ナボコフから一作挙げるならこれ。解釈の迷宮。読書の恣意性。
感想を書くのが大変でなかなかかけずにいるけれども、いつか必ず書きます。いつか。
記事はロシア語時代の最高傑作『賜物』のものを貼っておきます。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
最近気がついたこと。恋愛の諸相を描いた作品は数あれど、意外と嫉妬をテーマにした作品が好きかも。より正確にいうと、嫉妬とはちょっと違って、「彼女は、本当に、私を、愛しているのだろうか?」というタイプの物語。一人称の牢獄。
ナボコフ「かつてアレッポで…」とか、モラヴィア『軽蔑』、マンスフィールド「見知らぬ人」とか。
リュドミラ・ウリツカヤ『それぞれの少女時代』
少し前までは大体トルストイを、そして『アンナ・カレーニナ』を入れていたけれど、代替わりということで「現代のトルストイ」に。やっぱ現代は女性作家しか勝たん。
ウリツカヤはどれも良いのだけれど、ひとまずこの作品で。
キャサリン・マンスフィールド「ガーデン・パーティ」その他の短篇
これもじわじわ好きになってきた作品(群)。
長篇を読む体力が低下してきたからなのか、年齢を重ねるごとに大長編が苦手に、そして短篇がいとおしくなってきた。
短篇は短篇でまた別の10選が選べるほど好きな作品があるが、最近はやっぱマンスフィールド良いなぁしみじみ思う。
こちらの記事は執筆中なので近日中に公開します。
アンドレイ・プラトーノフ『チェヴェングール』
国が壊れたドサクサで生まれた奇怪な小説。この唯一無二感はほんと凄い。
フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』
それほどいまの気分ではないのだけれども、控えめにいって人生を変えた作品なので、あの日の自分のために。10代の頃に読んだこの作品を、最大瞬間風速で上回ること作品とはもう生涯出会えないような気がする。
『罪と罰』の記事は書く気がないので、同じドストの『白夜』の記事を貼っておきます。
安部公房『人間そっくり』
日本人作家からも一作。漱石も太宰も三島も芥川もしっくりこなかった中、唯一ハマったのが公房。SFと評されることも多いけど、そうした作家の中でも思弁性が強いのが好き。
ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」その他の短篇
怖くて感想が書けない作家。「私はナボコフが好きです」の同語反復かもしれない、ナボコフィアンホイホイの作家。長篇未読積読なのでこの作品から。物語への愛情が伝わってくるのが良いね。
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』
一番悩んだ10枠目。南米からこれという作家(作品)を選ぶのが難しく。
ここはやはり言語遊戯系文学かつ児童文学の代表として本作を。ついつい色々な翻訳で読み比べてしまう作品。本作にはじめて触れたのは大人になってからだけれども、それまでにあの酷いアニメ映画を見ることなく過ごせて本当に良かった。
#私にあわなかった小説10選
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』
これは試金石として。どちらかには入れておくのが礼儀というものでしょう。
本当は『ノルウェイの森』を挙げるべきなんだけど、だいたいここで『ノルウェイの森』を挙げると、『ノルウェイの森』だけしか読んでないのに批判するヤツ認定されるので。一応、2000年頃までに出た作品のうち、かつての友人たちが「最高傑作」に認定したいくつかの作品は読んでいる。
ところで、都内在住の学生だった頃、泥酔して深夜に遊びに来た後輩にパスタを振舞ったら、「先輩って村上春樹の登場人物みたいですね」と言われたことがあったのを思い出したけど、君それちくちく言葉だかんな。
呉明益『歩道橋の魔術師』
世界中に輸出されたマジック・リアリズムは、台湾で村上春樹と結びついた。
台湾文学ってエモ✕ノスタルジー路線が多い気がする。記憶をテーマにした作品には好きな作品も多いけれど、もうちょっとこう、そうした追憶には砂をぶっかけてくスタイルでいて欲しいんだ。
ウィリアム・フォークナー『アブサロム!アブサロム!』
ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』
個人的に同じ箱に入れてある作家。内容というより文章の手触りがあわなくて読み進めるのに抵抗を感じる。なんか、ベタベタしているんだよ。
嫌いというよりも合わないって感じなので、『ノストローモ』が出たらくじけず読みます。
エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』
これも内容とは別の話。受容側に透けて見えるオリエンタリズムが気に食わない。実際に本国でもそうした批判があるそうだ。
私はイギリス人が書いた『やし酒飲み』か、ナイジェリア人が書いた『ダロウェイ夫人』の方が読みたい。
ジョージ・オーウェル『一九八四』
敢えてこちらに入れておいたほんとうはそこそこ好きな作品。政治的には共感できるんだけど、文学というよりもパンフレット的な感覚が拭えない。政治色の強い作品は好みではないし、ディストピア設定はもうお腹いっぱい。どれも同じに見えてしまう。
私がSF作品にあまり手を広げられないのも、政治色の強い作品が多そうに見えるからかもしれない。
イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』
通俗化された『百年の孤独』に政治的私怨のスパイスをふりかけた感じがノレません。
毎回、イザベル・アシェンデなのか、イサベル・アジェンデなのか、どちらの濁点を外すのが正解だったか悩む。
遠藤周作『海と毒薬』
真面目か!
政治嫌いの次は宗教嫌い。なんとか文庫の夏の百冊みたいなやつで、ごく若いころに読んだ作品。宗教嫌いをこの作品に代表させてしまうのは申し訳ないが、他に思い当たる作品がなくて。あ、『田園交響楽』でも良かったかな。
ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』
真面目か!Part2。
いまどきこんなナイーブな主題ありうる?毒親とか虐待とかそっちの方向性ならわかるけど。いや、これは時代のせいではなく、単に読み手の資質の問題だろう。
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』
2万字も書いたはいいものの、未だに上手く表現できたか自信がないやーつ。もしかしてプルーストやナボコフよりも先に読んでいたならば、今頃熱烈なジョイシアンになっていたのかもしれない。とはいえ、「なんかきれいくない」ってこの感触はやっぱり私が読書に求める本質とはなんか違うんだろうなという気もする。
ここまで書いてきて思うのは、やはり上の10作よりも、下の10作の方が露骨に好みが顕れていそうだということ。何なら、もしかして書き手の私の人間性まで透けてしまっているかもしれない。
自分で振り返ってみて、読書傾向なり人間性なりに影響を与えているだろうと思い当たるフシが二つある。一つは、40年代生まれの父との折り合いが非常に悪かったこと。もう一つは、90年代に多感な時期を過ごしたことだ。
ジャズとか、バーボンとか、ハーレーとか。父(世代)が抱いていた漠然としたアメリカ文化への(時には憎しみも混じり合う)憧憬みたいなものには、気恥ずかしいくらいのダサさを感じてしまう。もしかすると、村上春樹や池澤夏樹が凄くカッコ悪いものに見えるのは、これが遠因なのかもしれない。
しかし、90年代育ちの方が影響は大きそうだ。中でも、オウム事件とそれに対する一連の報道には、過度の宗教アレルギーとともに根強い懐疑主義と相対的なものの見方を植え付けられた。同世代の「ヒーロー」といえば、酒鬼薔薇聖斗でありネオ麦茶であり、そして加藤智大だ。階層化された堅固な社会が、実は脆く崩れやすく、一瞬で崩壊しうるものであるかのような感覚。他者とのあいだでも、必ずわかりあうことができるという楽観論への疑念。
こうした生まれとか出自とか年齢とかいった変えようの無い部分が、もしかすると私の読書傾向を規定してしまっているような気もしてくる。けれども、こうしてこれをある程度可視化することができると、そうした軛から半歩でも脱して、新しい地平線が見えてくるのかもしれない。