空を押し上げて手を伸ばす君
え?と私は言った。なぜなら私は大学の英文科に進むのを許してもらおうと、もう一年近くも戦ってきたからだ。法科でも語学科でもなく、将来まともな職業につけないことが約束されたような学科に。(p.131)
<<感想>>
感想を書かずに、いや、感想が書けずにほったらかしになっていた、そう、アリ・スミスである。もし、これをお読みになっている方に、その評判が届いていないのであれば、もう少しアンテナを高くした方が良いかもしれない。
2022年には四季四部作の完結が評判となり、そして2023年には本作『五月その他の短篇』もとても評判となった。ひねくれ者の私は、評判が高くなればなるほど、積読タワー*1の下の方へ下の方へと押しやっていたが、それも覆すほどの評判の高さに、しぶしぶ読み始めたものである。
最初に書いておこう。間違いなく評判にたがわぬ名作である。そして同時に、感想を書くのが難しい、まことにブロガー潰しの短篇集である。このため、読み終わった後も感想を書くのをしばらく先延ばしにしていたのだが、また五月が終わる前に書いておこうと思う。
本作には、表題作である「五月」をはじめ、1年のうちの各月をテーマとする独立した12の短篇が収録されている。普段、当ブログで連作ではない形式の短篇集というと、全ての短編に感想を付した上で、全体の感想を書いたり書かなかったりしている。しかし、今回に限っては、ちょっとその形式を断念しようと思う。
そして、その理由を書けば、同時に本短編集の魅力が伝わるのではないかとも思っている。
1.「奇想」小説
最初の理由は、収録されている短篇のほとんどが、いわゆる「奇想小説」であることだ。「怪奇」というとホラーに、「幻想」というとファンタジーに寄るが、そのどちらでもない。「奇想」といって最もイメージされるのはボルヘスの短篇だろうか。
ただ、本作の作中舞台は恐らくはすべて現代イギリス(含、スコットランド)であるから、ボルヘスほど現実世界から遊離してはいない。しかし、その独創性の高さから、「奇想」度は高いと言えるだろう。そして、この「奇想」がミソの一つである以上、各短篇を次々と紹介して、さてこの短篇はこのような「奇想」で・・・とやってしまうのは、あまりに無粋だろう。
さてではその「奇想」感を説明するため、許されそうな範囲からちょっと引用してみよう。表題作にして恐らくは最良の短篇「五月」の冒頭部分からである。
あのね。わたし、木に恋をしてしまった。どうしようもなかった。花がいっぱいに咲いていて。(p.55)
最高でしょ?こんな素晴らしい書き出しってある?
『アンナ・カレーニナ』【過去記事】も、『変身』も、『雪国』も『銀河鉄道の夜』だって真っ青な、世界最高水準の書き出しである。「奇想」的設定の導入、意外性、美しさ。あらゆる要請を兼ね備えている。
話が少し横道にそれたが、このように「五月」では、木に恋をしてしまった人物の物語という奇想的設定が用いられている。そして他の作品でもこれと同様に、意外性溢れる「奇想」が披露されるのだ。
2.情報の節制
作品への具体的な言及を避けるもう一つの理由は、解釈の多様性が高そう、という点だ。ただ、ここで言いたいのは、結末が明示されない小説のオチをAと捉えるかBと捉えるべきか、というような、普通の意味での解釈の多様性とは次元が違う。
実はこの作品集には、厳しく情報が制限されている作品が多いのだ。例えば年齢、性別、舞台。語り手はプラスの感情なのか、マイナスの感情なのか?そもそも、語り手は本心で発話しているのか、それともそういうフリをして語っているだけのか??場面によっては、発話者がその場の誰かさえ不明瞭だったりする。私の読むところ、作者はこうした情報の制限を、かなり意図的に、工夫を凝らして行っている。
そうすると、読者としては、必然的に、この語り手はさては認知症なのではないか?とか、もしかすると、ここに出てくる恋人同士らしい二人は、実は同性なのではないか?などなど、様々な推測をしながら読み進めていくことになる。
そして、この思考を巡らせつつ読む、という独特の読書体験こそが、この作品を無二のものとしているのである。影絵師が紙切れに光を当てることによって、見事な造形を浮かび上がらせ、それを作品とするかのように、制限的な物語を読んで、読者の脳内に結ばれた像こそが、アリ・スミスの創り出した物語なのである。
3.素晴らしい感性と文章
ここまでいろいろ書いてはみたが、実は彼女の一番の魅力はこれかもしれない。書かれた文章のセンスが、まるで歌人のようなのだ。
俳人でも、詩人でもなく、歌人。それも現代短歌を詠む人の。これも論より証拠で、引用部分を読んで欲しい。
まずは、九月を題材にした「信じてほしい」から。
窓の外では木々の葉がほんの少しちぢれ、秋のはじめの深い緑色になった。九月の日曜日だった。九月にたった四つしかない日曜日。(p.146)
続いては、一月を題材にした「始まりにもどる」より。
外はみぞれ混じりの雨で、こごえる寒さの夜だった。一年でいちばん過酷な月、日々はより暗く、週はより長く、銀行口座にお金が入るまでにより時間がかかる月だった。(p.187)
なんといえばいいのだろう。日常的な、ふとした些細な情動や光景を、抜群の言語的センスで切り取る、とでもいえばいいのだろうか?
ぜひ直接味わってみて欲しい。
4.ほんとうの感想(?)
ちょっとここまで褒めすぎたので、最後にちょっとは批判して、いや、言いがかりをつけて終わりたい。私風情が文句を垂れたところで、この高い評判は毫も傷つかないだろうから、そこは気にしてはいない。
最初に、ここまで完成度の高い短篇集なのに、各作品に目を転じると意外と玉石混交だと言いたい。どれも決して悪いわけではないのだが、いくつかの作品が飛び抜け過ぎていて、アンケートでも取ったらきっと票が集中するんじゃないかと思う。
ちなみに、私が特に良いと思ったのは、冒頭作の「普遍的な物語」と表題作の「五月」で、次点を選ぶなら、「信じてほしい」と「スコットランドのラブソング」になるだろうか。
続いて、まことに言いがかりにしかすぎないのだが、ちょっと出来過ぎているのが気に入らない。表現を換えれば、お上品で高級にすぎる。作中の男女*2の描写等からも、読者として想定されているのは、成熟したインテリの大人、というイメージだろう。
プルーストとかナボコフを好きと言いながら、インテリ向け上品物語だとケチをつけるのは何たることかと思われるかもしれない。しかし、プルーストなんてのは貴族様の社交界ではイロモノ扱いをされたキョロ充な上に、浪費しか能の無かったバカ息子に過ぎない。半ユダヤ人の同性愛者であり、読みようによっては、被虐者の復讐みたいな物語でもある。
あるいはナボコフについても、貴族出身でありながら祖国を追われ、亡命先のヨーロッパをも追われた二重亡命者であり、作品からも抑圧への強い恐怖と憎悪、自意識と現実との相克などが感じとれる。
ようはさ、なんかこう、もうちょっと、ザラザラしたものとか、ゾワゾワしたものが欲しいんだよ!
お気に入り度:☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆☆
・上品なのに、すごくザラザラするやつはこちら
・ゾワゾワしすぎてるやつはこちら
<<背景>>
2003年刊行。つまり、日本での刊行は「四季四部作」や『両方になる』などの人気長編より後であるものの、作品の成立自体はこちらが先ということになる。
原題はThe Whole Story and Other Storiesであるから、「五月」を表題作に持ってきたのは日本オリジナルということだろうか。よくある"and Other Stories"が付く短篇集だが、原題はちょっとひねっているのが良い。
著者はイギリス人の父と、アイルランド人の母との間に、スコットランドで生まれたらしく、いまや少数派となりつつある非移民系のイギリス人である。訳者解説には労働者階級の生まれとあるが、成長してケンブリッジに入り、見事インテリへと変貌している。
<<概要>>
作中に書いたとおり、全て現代のイギリス、一部は特にスコットランドを舞台とする物語である。
語りの視点取りは実に面白く、各短編ごとに著者の技巧というか、遊び心が見られて実に面白い。特に二人称小説?とも言うべき作品が面白い。
「わたし」が「あなた」に語り掛けているのだ。この「あなた」は作中の登場人物のようである。そして、同じ作品内で「あなた」と「わたし」が交代して、最初の「あなた」が最初の「わたし」に対して、「あなた」と呼びかけるようになるのだ。
一人称小説のようでいて、書簡体小説のような、独特の読み味がある。
<<本のつくり>>
私のなかで岸本佐知子氏の代表作といえば、『中二階』だった。いまだに忘れない、十数年前に、文学部の同級生が最近のお気に入りとしてオススメしてくれた一冊だ。勧めた当人はもうそんなことは覚えていないだろうけれど、不思議と勧められた方は、その本の思い出と同じ抽斗に仕舞っていつまでもそれを忘れないものである。
さて、この言明を過去形で表したのは、今後、この作品こそが岸本氏の代表的な訳業になると思うからだ。そのくらい訳文が素晴らしい。
レギュレーションに阻まれたため、現実には別の作品を推したが、そうでなければ日本翻訳大賞の投票先は間違いなくこの作品にしていただろう。