僕は読書に関してたいへん付き合いが悪く、周囲が話題にしている本をいっちょ自分も読んでみるか、ということをこれまでの人生でまったくやって来なかったのですが、先日話の流れで読書会をやることになり、課題図書のジョナサン・ゴットシャル『ストーリーは世界を滅ぼす』をせっせこ読んでいたわけです。
とくにレジュメなどもない「世界一ゆるい読書会」を志しているのですが、いちおう読みながらメモを取ったところ、自分のなかで関心のあるテーマが六つに絞れたので、整理がてらに書いてみます。
- 1.本書の基本的主張と、注目すべき点
- 2.脳は現実とフィクションの区別が苦手であること
- 3.自己意識状態は苦痛であること
- 4.陰謀論は生を充実させる
- 5.ゴシップとネガティビティ・バイアス
- 6.論理は武器、議論は侵略である?
1.本書の基本的主張と、注目すべき点
この本の基本的主張はわりと単純で、ひとことでいえば「われわれは現実をニュートラルに認知するのではなくストーリーを媒介に認知しており、そのことは古来より刻み込まれた習性なので基本的に避けがたい」「そのようなストーリーが集団を結束させたり、われわれを癒したり励ましたり勇気づけることもあるが、いっぽうで戦争やテロリズム、フェイクニュース、洗脳、カルトといった人類の暗黒面とも強く結びついている」といった感じのもの。
例:ロバート・バワーズは2018年、シナゴーグで乱射事件を起こし11人を殺害した。彼はユダヤ陰謀論を信奉していた。著者は「このすべては、この棺の列と悲しみのすべては、一つの物語のせいなのだ」p.20と述懐する。
彼は壮大な歴史叙述詩の悪を倒す英雄にみずからを仕立て上げた。悪夢のようなLARP(ライブRPG[ゲーム世界の設定を再現して遊ぶ体験型ゲーム])ファンタジーにとらわれていたのだ。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の物語世界を演じながら楽しく森を駆け抜ける大人たちのように。だが、彼に撃たれた被害者たちは現実の存在だった。
(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』p.23)
余談だがここでライブRPGが引き合いに出されるのは、かつて米国で実際に起きた少年行方不明事件のためだろう。個人的には、この事件を題材にした映画 『トムハンクスの大迷宮』(原題「Mazes and Monsters」)を思い出す。
なお著者のいう「ストーリー」は、神話やおとぎ話、小説だけでなくポップソングやゲーム、SNSの発言、バーでの口説きなどをも含む広範かつ抽象的な概念。
このような主張は、ともすれば「一冊使って言うほどのことか?」と思う読書もいるかも知れないが、ここで留意すべきことは、p.33で著者が述べるように「それをわかっている者がほとんどいない」現状である。精確に云えば、「自分は現実とフィクションの区別がついている」と確信している人が大多数、ということ。
一方でさしたる驚きや葛藤もなく本書の主張が「そりゃそうだな」と微温的に受け容れられ或いは流されてゆく反面で、もう一方ではアメリカでも日本でも、日がな争っている人たちにこの本のメッセージは届いていない。
リベラル対保守とかフェミ対アンチフェミといったことを「表層の分断」とするなら、この本の基本的主張をすんなり呑み込める、どころか既視感すら覚える(この議論はあきらかにリオタールの「大きな物語の消失」やアンダーソンの「想像の共同体」、大澤真幸の「第三者の審級」、岸田秀の「唯幻論」、岡田斗司夫の「洗脳社会」といったものを彷彿とさせる)人たちと、徹底的にこうした視点に欠ける人たちのあいだには、より本質的な「深層の分断」があるのではないか?
2.脳は現実とフィクションの区別が苦手であること
ページの中の少女そっくりに、あなたの脳はシナプスにアドレナリンとコルチゾールを送り込む。驚いたことにあなたのエンドルフィン系は活性化し、あなたの痛みへの耐性を大きく上げる内因性オピオイドを分泌する。
(中略)
あなた自身が危機の迫った少女であるかのように、脳は活動している。
(同書、p.42)
クリフォード・ナスとバイロン・リーヴスは、このように意識下でメディアと現実を混同することを「メディアの等式」と呼んだ。
(中略)
ナスとリーヴスが『人はなぜコンピューターを人間として扱うか――「メディアの等式」の心理学』を発表したのは1996年だったが、四半世紀経った今、それを裏付けるデータはいっそう強固になった。研究の進んでいるパラソーシャル・インタラクションという現象を例にとろう。これは、物語の登場人物に実在の人間に対してと同じように自然に反応してしまう、人間の普遍的な性向のことだ。
(同書、p.47-48、太字、デカ字は安田による)
以前僕が書いたブログ「ヒトは虚構と現実の区別が苦手である/アントン症候群、その他の事例」のなかで、ニコラス・G・カーや戸田山和久による類似の指摘(ざっくり言えば、神経細胞や循環器系はフィクションのような代理体験でも実体験と同じような反応を起こす)を紹介した。
またエリエザー・スタンバーグは、イメージトレーニングには実際にトレーニングするのに準ずる効果があるとか、睡眠などで前頭前野が一時的に機能していないと、虚構と現実の区別がつかなくなることについて論じている。夢やLSDの幻覚状態がそうだし仏陀や聖アントニウスの前に悪魔があらわれたのもおそらくそう。マトリックスオナニーのような、想像力が強い人というのは故意に前頭前野の機能を弱めているのではないか?

3.自己意識状態は苦痛であること
椅子に10分座っているよりも電気ショックを選ぶ学生たち。p.58-
もちろん、心がさまようのはけっして悪いことばかりではない。しかし幸福感を追い求めるときの私たちは、もっぱら大いなる饒舌を黙らせるような体験を追い求めている。私たちにとって快楽を感じる状態とは、疲れも知らずに語り続ける内面のモノローグに一時的に猿ぐつわをかませることに等しい。精神的な苦痛をやわらげ快楽を高めるために私たちが求めること――セックス、映画、夢中になれる会話、スポーツ、ドラッグ、ビデオゲーム、マインドフルネス瞑想、時間を忘れるTikTok浸り、どんなことであれフロー状態(「ゾーンに入った」感覚)――を、私たちは主に頭蓋骨という監獄から仮出所させてくれるからという理由で求めている。何がどうあってもしゃべるのをやめない同室者と一緒に一生閉じ込められているような、あの感覚から逃れるために。
(同書、p.60)
これについては先日noteで、エリアーデの議論(を紹介するハロルド・シェクターの議論)に絡めて書いた。エリアーデによれば非聖化された現代社会に生きる人々とって娯楽とは、日常的業務の囚人である状態を一時的にでも抜け出し、死のない永遠の時間に回帰するためだという。
また、何事かに没頭している、忘我の状態を目指すというのは、最近読んだ中田考『どうせ死ぬ この世は遊び 人は皆』の提案にも近い。
心理学の入門書でも、自己意識状態が長くなるのは精神衛生上悪いと書かれていたのを読んだことがある。別の言い方をすれば「自意識の肥大」はなにかとよくない。いわゆる「近代人の苦悩」。そのために、さまざまな宗教が「自己滅却」を目標にしている。
ちなみに僕は自己意識状態であることがひじょうに多い。それが苦痛の源泉だと言われると半ば納得するものの、いっぽうで外部意識状態への忌避感もある。映画を観るとか人と会うといったことは、長いあいだ外部意識状態でいなければならなくなるので躊躇する。ただこういうことは僕以外にもある程度あるんじゃなかろうか。「行ったら行ったで楽しいだろうけど」というのはそういう心性を表す言葉。
4.陰謀論は生を充実させる
心理学者をはじめとした社会科学者による陰謀物語の研究は非常に貴重だ。しかし、陰謀論的世界観の心理を分析してその構成要素を探ろうとする熱心な取り組みの中では、陰謀物語が流行る最も単純な理由がおおむね見過ごされている。流行るのは陰謀物語がたいてい、気持ちをわくわくさせる虚構のスリラーだからである。信者の多い陰謀物語はほぼすべて、ハリウッド映画として大ヒットするはずだ。
(同書、p.121)
地球平面説の大会に参加するのはLRPGの大会に参加するのと実際そう変わらない。
(中略)
かも地球平面説信者のロールプレイングゲームのほうがずっと面白い。なぜなら、従来の体験型ロールプレイングゲームが一時的かつ不完全に棚上げした不信に邪魔されている(みんながごっこ遊びだとわかっている)のと違って、地球平面説LARPではどうやら本格的かつ完全に不信を棚上げしているからだ。
(同書、p.128)
陰謀論にコミットすることによって人生の意味や聖なる使命、英雄的な自己イメージ、共に戦う仲間たちを手に入れることが出来る。
こうした「参加型陰謀論」とでも言うべきムーブメントについては、『現代思想 特集「陰謀論」の時代』のなかでQアノンについて同趣の指摘があるし、『幻魔大戦』や『ぼくの地球をまもって』等の影響からくる前世少女ブーム、オウム真理教、小林よしのり『正義論』の論点(薬害エイズじたいは陰謀論ではないが)、参政党、反ワクカルト等々さまざまな場面で繰り返し見られる現象である。
ちなみに最初「ライブRPGならLRPGじゃないの?」と思ったが、「LARP」はLive Action Role Playingの略とのこと。
ごっこ遊びとカルト的共同体、すなわち「虚構だとわかっている」ことと「信じている」ことは、どこかに明確な線があるのではなくグラデーションなのではないか。
5.ゴシップとネガティビティ・バイアス
個人的には非常に興味深い、かねてから考えているテーマ。
例えば、都市伝説は嫌悪感を誘うほど覚えられ、伝えられていく。心理学者のジョゼフ・スタバーズフィールドによる研究は、「ネズミの唐揚げ、チキンバーガーに入っていた膿の詰まった腫瘍、知らずにしてしまった近親相姦などの物語は、もっと平板で嫌悪感を持たれにくい物語よりも文化的に成功しやすい」ことを示している。
(同書、p.112)
このすべてが、通常は暗い題材が明るい題材に勝つ物語戦争の一般的なパターンに結びつく。そしてこのパターンの裏になるのは、人間心理全般の「ネガティビティ・バイアス」だ。「ネガティビティ・バイアス」とは、心理学者のダニエル・フェスラーらが示したように、「ポジティブな出来事に比べてネガティブな」出来事のほうが関心を引きやすく、記憶に保存されやすい……そしてモチベーションを刺激する力が強い」ことをいう。
(同書、p.27)
人が明るく平穏な話題より、不快な話題、危険な話題に注目するのには原始段階での生存のための適応が関係してくるらしい。
霊長類学者のロビン・ダンバーは著書『ことばの起源―猿の毛づくろい、人のゴシップ』(松浦俊輔、服部清美訳、青土社、1998年)で、人間の言葉はそもそも物語を語る目的で進化した、つまり部族のルールに誰が従っていて誰がそうでないかについてゴシップ話をするためだったと主張している。ダンバーをはじめとする科学者たちは、ゴシップは評判は悪いものの、道徳上の違反行為を取り締まることによって共同体が機能するのに役立つと強調する。
(同書、p.164)
例えば、私たちの先祖が生きていた世界では、『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ』が提供するような最新流行の社会的情報は魅力的なだけでなく切実に重要でもあった。誰と誰ができているか、対立しているか、つるむ相手を変えたかという人間関係のゴシップは、部族が調和を保って分裂を妨げるかどうかに直接関わっていた。
(同書、p.133)
元来、人間にとって評判がいかに切実なものであるか、また噂話のネットワークがいかに生存のために重要だったがについては、幾つかブログを書いたことがある。
……が、いちいちブログを読むのが面倒な人のためにコンパクトに私見をツイートしたのが、これだ。
ゴシップ、噂話、陰口というと人は卑しむけれど、これはもともと人的流動性が低くマスメディアも科学捜査もない原始的あるいは前近代的社会において、生き延びるために切実な情報源だったということは一々出典を覚えていないけれど各所で指摘されているし、最近読んだゴットシャルにも書いてある。
— 安田鋲太郎@楽しい蘊蓄 (@visco110) 2024年5月9日
つまりニュースであると同時に集団への帰属の確認であり、脅威に関する情報の共有であり、資源や知恵の再分配でもあった。今でも田舎や老人の会話にその名残が見られるし、若者や都市民だって、たかだか百年やそこらでそうした習性がなくなりはしない。又、SNSは新たな村社会といえるかも知れない。
— 安田鋲太郎@楽しい蘊蓄 (@visco110) 2024年5月9日
そんなわけで僕は、ゴシップ、噂話を過剰に卑しむのはどうかと常々思っている。
また、最近知ったこととして次のような傍証もある。
R・D・オールティックだったと思うが、ヴィクトリア朝の裁判記録には「彼は立派な紳士で」とか「彼女は品行方正な淑女であり」といった証言がよく出くるという。証拠主義以前の裁判では身分や評判が判決に大きく影響していた。当然ながらそれ以前の社会もそうで、人々は噂にかなり神経を砕いていた。
— 安田鋲太郎@楽しい蘊蓄 (@visco110) 2024年5月9日
6.論理は武器、議論は侵略である?
メルシエとスペルベルは、理性とは客観的な真実を判断するよりも、社会的な競争において剣と盾の役割(議論で攻撃する剣、攻撃を受け流す盾)を果たすために進化したツールであるという見解を示している。
(中略)
ホモ・サピエンスは合理的な動物ではなく合理化する動物であることになる。
(同書、p.211-212)
これはなかなか衝撃的な指摘だった。ユーゴ・メルシエとダン・スペルベルは心理学者で、『The Enigma of Reason』(2017)のなかでこうした議論を展開しているらしい。
どこまでが議論でどこからがロジハラというよりも、そもそもロジックじたいが戦うためのもの、良くも悪くも「武器」である可能性。
いっぽうでロゴセントリズム批判につながるが、もういっぽうでイェーリング『権利のための闘争』的な、議論とは避けがたく闘争的であることを受け容れよ、という話にも繋がってくるので両義的。
また著者はp.84でも、書く事は本質的に攻撃的であり、暴力であり、侵略であるという主旨のことを述べている。
そんでまあ、先日某所でこういうやりとりになった。


先方の言っている「相互にお気持ちを尊重し合うことが重要だって話自体、非常に論理に寄った態度なんですよね」という指摘は、はじめ何を意図するものなのかピンと来なかったのだが、あとあと直接聞いてみたらようするに「でもそういう話自体を棍棒に殴ってくる奴いるじゃん」的な意味であった。なるほどね。
この相手がそう思っているかどうかは別として、争いの渦中にあるとき、ほとんどの人は「対話に開かれていないのは敵側」だと信じているし、仲間内でそのような言説を重ねて信念を強化してゆく。先に殴ってきたのは敵側。殴るのをやめようとしないのも敵側。
この本は、そのような相手を悪魔化してしまうストーリーの力をこそ警戒しよう、それこそがどの陣営とかではなく、我々人類に共通に課せられた問題なんだよ、という話だったはずだ。
ちなみに、けっこう昔になってしまうが、「相手の悪魔化」について考察し、自分なりの提言を書いた記事が下記である。よろしければお読みください。
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さて今回はちょっと内輪な話題であるし、だいたいこんなところです。それではまた(・ω・)ノ