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死に抗う、無意味でかつ自由な生命


 浅田彰『構造と力』といえば、ポスト構造主義の前史から当時の最前線までを扱った優れた思想史の書と見做されており、実際に紙幅の多くはラカンドゥルーズ=ガタリといったポスト構造主義者の理論に対する議論に充てられている。だが本全体の底流にはマックス・シェーラーやゲーレンらの人間学、またシュレディンガーやウィーナーらの生命論といった文脈が流れていることを、ある人は微かに感じ、またある人は強く意識するであろう。

 蛮勇を畏れずに要約するならば、ここで用いられる人間学とは「ヒトは本能を失った生き物であり、それを補うために文化を創造した」というテーゼであり、生命論とは「生命とは負のエントロピーを摂取することによって全体のエントロピー増大に抗う局所系である」というテーゼである。

 

 先日のいわゆる〝バズった〟ブログ(『不自然な男の性欲』)は、この人間学のテーゼを前提としている。人間学によれば、本能を喪失した動物であるヒトは、求愛についても動物のダンスや交尾のような定まった様式を持っていない。それゆえに欲情のためには「幻想」を必要とする、という趣旨であった(ここでいう「幻想」は人工的な求愛様式に他ならず、すなわち「文化」そのものと言い換えてもよい)。

 他にも当ブログでは、『裸はなぜ恥ずかしいのか?/植物🌼動物🐵ヒト👩の羞恥心 』『ヒトは自然体にはなれない』 が、このような前提に添って、それぞれ「羞恥心」「自然体」についての考察を試みている。

 

 ……のだが、今回は後者の、生命論について見てゆきたい。もともとどちらにも強い関心があったのだが、「生命とは何か」という問いの根源性には近頃、とりわけ強い関心を覚えるからである。

 

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 ひとまず『構造と力』の当該箇所を見てみよう。

 

 エントロピーの増大による一様化、無秩序化に抗しつつ、「ネゲントロピーを食べる」こと、即ち「エントロピーを捨てる」ことによって秩序を維持している局所系。「エントロピーの大海の只中のネゲントロピーの小島」、これが生命である。このことが意味するのは、生命が動的開放系であり、自らの構造と内外の諸過程を情報によって制御しているということに他ならない。
 (浅田彰『構造と力』p.28、以下太字は安田による)

 

 周知のように、熱力学の第二法則によれば宇宙全体のエントロピー(原子的排列および運動状態の不規則性・不可逆性)は増大はすれど決して減少することはない。したがって宇宙は最終的にエントロピー値が最大化し、いかなる運動も差異も不可能な「熱死」を迎えるとされている。

 そのような状況下で、生命がその存在を可能にしているのは、生命が宇宙全体からある程度独立した「局所系」であり、周囲の環境からマイナスのエントロピーを摂取することによって体内のエントロピーを捨てているからである、というわけだ。ちょうど家の中のゴミをぜんぶ不法投棄してしまえば、地球全体は散らかるが、家の中「だけ」は綺麗になる、といった具合に。

 

New Scientist Live: the death of the universe may not be inevitable | New Scientist

 

 浅田は「ネゲントロピーを食べる」というフレーズをシュレディンガーに依拠している。

 学生時代に『構造と力』のこの部分をはじめて読んだ時にはかなりの衝撃を受けたものだったが(その理由は後述する)、引用元であるシュレディンガー『生命とは何か』を確認すると、なんというか、そっくりそのままの話がやさしい口調で書かれているので少し拍子抜けしてしまったほどだ。ともあれそこでシュレディンガーは次のように述べている。

 

 それでは、われわれの食物の中に含まれていて、われわれの生命を維持する貴重な或るものとは一体何でしょうか? それに答えるのは容易です。あらゆる過程、事象、出来事――何といってもかまいませんが、ひっくるめていえば自然界で進行しているありとあらゆることは、世界の中のそれが進行している部分のエントロピーが増大していることを意味しています。したがって生きている生命体は絶えずそのエントロピーを増大しています。――あるいは正の量のエントロピーをつくり出しているともいえます――そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいてゆく傾向があります。生命がそのような状態にならないようにする、すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えずとり入れることです。――後ですぐわかるように、この負エントロピーというものは頗る実際的なものです。生命体が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。このことをもう少し逆説らしくなくいうならば、物質代謝の本質は、生物体が生きているときにはどうしてもつくり出さざるをえないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるということにあります。
 (シュレーディンガー『生命とは何か』p.141)

 えーと、なんか💩の話してます?

 エヴリン・フォックス・ケラーは、シュレディンガー生命の主要な特徴を生殖や成長ではなくむしろ劣化への抵抗、「行い続ける」こと、すなわち「死のくい止め」と捉えていることの独自性を指摘している(『機械の身体』)が、これはなかなか興味深く思える。

 というのも、我々は「生命」といえば直感的にその誕生や成長をイメージしがちだが、生まれてきてから自身が日夜欠かさず行なっていることは、むしろシュレディンガー的な意味での「死のくい止め」なのであり、いっぽう誕生や成長については、誰もが確実にそれを目の当たりにするわけではないからである。

 

Yves Tanguy:Azure Day(1937)

 

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 さて、このことがどう衝撃的だったのか。ここまでの話ですでにピンと来る人は来ているであろうし、ピンとこない人は最後まで読んでもピンと来ないだろうから説明する意味があるかどうか疑わしいが、いちおう言うならば、生命が「ネゲントロピーの小島」であるということは、我々を生きる意味だとか運命といったものから解放してくれるのである。

 

 これを、例の「人類の特権性を剥奪する三つの発見」に加えて「四つ目の発見」としてもいいだろう。すなわち天動説から地動説へ(ガリレオ)、創造説から進化論へ(ダーウィン)、意識のヘゲモニーから無意識のヘゲモニーへ(フロイト)に続く、生気から局所系へ(シュレディンガー)というパラダイム転換である。

 実際、生命を「エントロピーの増大に抗う局所系」と捉える見地は、生命と非生命のあいだに従来引かれていた越えちゃいけないラインを不確実にしてしまうのである。このことを少し見てゆこう。

 

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 クラウス・エメッカによれば「現代の生物学は、例外や欠点のない生命の定義はひとつもないだろうということを認めている」という(『マシンの園 人工生命叙説』p.48……以下この節はエメッカの議論に依拠する)。

 たとえば生理学的定義を採るならば、自動車はある意味においてガソリンを食べ、排気ガスを排気しているので生命と見做せるいっぽう、酸素呼吸をしないバクテリアは生命とは見做されない。私見では、この定義ならば自らエネルギーを摂取しにゆくルンバは疑問の余地なく生命であろう。

 

モンスタールンバさん。グロ耐性のない人は底面は見ないほうがいいかも…… sketchfab.com

 

 同様に「生命は代謝を行なう」とすれば、何世紀にもわたって代謝をしない未発芽の種子は生命かどうか疑わしいいっぽう、川の渦巻きは周囲との物質やエネルギーの交換――すなわちある種の代謝を行なっているので生命と見做せる。

 また「DNAのような核酸を持っている」という生化学的定義では、そのような構造を持たないプリオンは生命から除外されてしまう。だがプリオンが生命ではないというのは我々の一般的通念には反する(改めるべきは一般的通念であろうか)。

 

 では、シュレディンガー-浅田が言うような生命=熱力学的局所系という定義の場合はどうか。

 確かに、この定義はあらゆる生命をカヴァーすることが出来る。だがいかんせん、フライパンに油とチリパウダーを入れて加熱すると、チリパウダーは周囲の無秩序からミツバチの巣のようなパターン(エメッカいわく「ベルナール細胞」)をつくりだす――すなわち熱力学的局所系が誕生するのである。我々とフライパン上のチリパウダーの違いは何であろうか?

 

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 したがって、むしろ熱力学的な開放系の中の一種として生命を位置づけたほうがいいのかもしれない、とエメッカは提案している。

 じっさい、生気論と機械論の対立の歴史においては一貫して機械論が優位であった。長野敬「生物学の歴史は、生命の領土への機械論の進出あるいは侵略の歴史だった」と回顧している(『科学的方法とは何か』p.29)。またジャック・モノーはベルタランフィを批判したさいに「生命の理解においては科学的な立場は機械論しかありえない」と言い切ったという(同書、p.32)。

 僕自身は唯物論者なのでモノーのような物言いに違和感はない……ことは措いておくにしても、自然科学の世界では唯物論的思考がスタンダードであり、それなくしては実証的研究などできない、ということはまあ常識の範疇であろう。

 

 なにより機械はどんどん進化するので、それに応じて機械論の説明もどんどん高度になる、という有利さは否めない。

 

 デカルトニュートン、カントが機械の典型例としたのは、時計である。時計は一つ一つの歯車の運動によって精確に運動を伝えていく。時計はデカルトの見出した運動量保存の法則を具現している。一八世紀末に機械の典型となったのは、ヘーゲルを感動させた水車である。水車では位置エネルギーが回転エネルギーに転化される。エネルギーの形態変化が生じるのである。一九世紀半ばに機械の典型例になったのは、工場である。クロード・ベルナールは生命の隠喩として工場を繰り返し用いている。工場は、原材料を仕入れまったく別個の製品として産出する。工場は物質代謝を行なうのである。二〇世紀前半の機械の典型例は、フォード型ベルトコンベヤーの生産ラインである。クエン酸回路のような生化学反応系は、ベルトコンベヤー型の反応回路として図式化されている。そして二〇世紀後半の機械の典型例がコンピューターである。

 (河本英夫オートポイエーシス』p.18)

 

クエン酸回路。The citric acid cycle | Cellular respiration (article) | Khan Academy

 

 つまるところ生気論とは「生命にはまだ機械論で説明できないことがある」ということを言い続ける立場である、と河本は指摘する(大意)。そのうえで、彼は生気論と機械論の対立は擬似問題だという立場を採るが、このことは以前のブログで触れたことがある(「病因人間論 あるいは抵抗の産声のための少しだけ長い物語」4章d節)ので興味のある方は参照されたい。

 

 又、ノーバート・ウィーナーはこうした議論を「意味論的」であるとして、自らの了見の範疇にはないとしているが、そのようなデタッチメントな立場も一つの見識ではあろう。ウィーナーいわく「私の見解では、「生命」とか「心」とか「生気」とかのような厄介な言葉を一切避けて、機械はエントロピー増大の大きな流れの中でエントロピーの減少するポケットのようなものだという点で人間と似ていると十分みなせるということだけ言うのが最善である」、また「ふつう生命と呼ばれているものの物理的、化学的、および精神的な過程が生命模倣機械のそれと同じであると言おうとするのではなく、単に両者がともに局所的な反エントロピー過程であると言うのであり、そういう過程はおそらく、生物的とも機械的とも呼べない他の多くの仕方でも存在するであろう」(ウィーナー『人間機械論』p.29-30)云々。

 

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 さて話を戻すと、そのような生命の一種であるヒトに「生きる意味」や「運命」などあろうはずがない(ましてや「前世」など)、ということである。人ははじめから、良くも悪くもそのようなものから解放された存在なのだ。

 

 良くも悪くも?

 そう、熱力学的開放系の下位カテゴリーであるヒトに「生きる意味」や「運命」などない――これが朗報か悲報かは難しい、というか人による。もっと言えばその人の決定による。

 というのも「生きる意味」や「運命」はある人にとっては包摂=癒やしであると同時に、ある人にとっては重苦しい桎梏だったからである。或いはそれが見つからないという苦しみも含めて。

 したがってそこからの離脱は、「意味不在の苦しみ」にも「意味からの解放(の癒やし)」にもなりうる。


 このあたりが「ヒーリングというファクターを批判していたはずの『構造と力』が、当時のほとんどの学生にヒーリングとして読まれた」(大意)という絓秀美の指摘(『ニッポンの知識人』)の意味するところだったのだろう。

 

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 最後に思い出すことを一つ。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』第13話「涼宮ハルヒの憂鬱 V」で、ヒロインのハルヒが次のように語るシーンがある(筆者は以前直接観たことがあるが、思い出すにあたってこのブログを参考にさせていただいた。少し縮めたのでご了解ください)。

 

 小学六年の時、家族みんなで野球を観に行ったのよ着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないかと思った。

 試合が終わって駅まで行く道にも人が溢れていたわ。それを見て私は愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばほんの一部にすぎないんだって。

 私はまた愕然とした。私なんてあの球場にいた人ごみの中の、たった一人でしかないんだってね。

 それまで私は、自分がどこか特別な人間のように思ってた。でも、そうじゃないんだってその時気づいた。私が世界で一番楽しいと思ってるクラスの出来事も、こんなの日本のどの学校でもありふれたものでしかないんだ。

 小学校を卒業するまで、私はずっとそんなことを考えていた。考えていたら思いついたの。面白いことは待っていてもやってこないんだって。

 

涼宮ハルヒの憂鬱』第13話「涼宮ハルヒの憂鬱 V」

 

 当記事のテーマに即していえばこうだ。ハルヒが最後に「考えていたら思いついた」こと、それは「人生の意味」や「運命」に包摂される生き方を断念し、そうしたものがそもそも存在しないことを受け容れ、その代わりに自ら人生をクリエイトする(面白くする)ことだったのである。

 脱意味・脱運命がネガティヴかポジティヴか、剥奪か解放かは各々の決定による、とさきほど書いた。ハルヒは最初は剥奪感を抱き、やがてそれが自由と自己決定の契機だった、というようにリライトしたわけだ。

 

 「ネゲントロピーの小島」(シュレディンガー)、「熱力学的開放系の下位カテゴリーとしての生命」(エメッカ)という現実はこの野球場のようなものである。それはガリレオダーウィンフロイトがそうしたように、真摯に受け止める人を傷つけるであろう。だが、その先には「あんたの人生やけえあんたの好きなようにやりんさい」的な自由が待っていると言いたい。いつだって我々が手にする自由は苦い味がするのである。

 

 *

 

 さてだいたい書きたいことは書いたのだが、僕は何故か、今回書いたような生命論への関心と同時進行的に、宗教やオカルトへの関心が高まっている。

 これだけ唯物論的なことを述べておきながらなぜ今さら? と思われるかも知れないが、おそらくこういうことなのだろう。本文で見てきたような生命観はそれなりにクリアなものなので、かえって自然科学的な妥当さを度外視した精神史――人類が長い歴史のあいだに遺してきたものの「言いたいことの核心」に、意識をフォーカスしやすくなっているような気がしているのである。

 そうした宗教やオカルトへの関心が何らかの実を結ぶかどうかはわからないが、また何か書きたいことが出てきたら書こうと思います。
 では今回はこのくらいで(・ω・)ノシ

 

 

 

この本については筆者は旧版を用いたが、読書案内の便宜として新しい版のリンクにしてあります。




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