『バーラ先生の特別授業』を受講してまいりました。
1990年代のインドでは教育の改革が進められ私立の教育機関が次々と生まれたわけですけれども、それでめでたしめでたしとはいかなかったのでございます。
その影響で裕福な家庭の子供は公立の学校ではなく私立の学校に通い、また私立の学校に通えない貧しい家庭の子供は家計のために学校に行かずに仕事をするようになり、一方で公立学校の先生も有能な人は私立の学校に引き抜かれてしまい、その結果公立の学校は破綻状態になってしまいました。
そんな中、地方の公立学校に赴任したバーラ先生ことバーラムルガンは、貧しくて学校に通えなかった学生たちの意欲を刺激して学校に呼び戻し、様々な困難を乗り越え共通試験で優秀な成績を取らせることを目指すのでございます。
ここで主な障害になってくるのは、大手私立教育機関の経営者でして、学費の安い公立学校で質の良い教育をされてしまっては学生がみんな公立学校に行ってしまい、私立学校は法外な学費をふっかけて儲けられなくなってしまいますから、バーラ先生の授業を躍起になって妨害しにくるのでございますよ。
という具合の映画ではありましたが、案の定この映画には社会派のインド映画ではおなじみのドキッとするようなせりふ、シーンが出てまいりました。
まずは紹介動画にも挙げられているバーラ先生が学生とその親に教育の意味について語るシーンなのですけれども、ここで出てくる「金を稼ぐ方法は山ほどあるが尊敬は教育からしか得られない」というのはなかなか印象的なせりふでしたねえ。
そして、ここで名前の挙げられていたアブドゥル・カラームという人物について気になったので調べてみましたら、映画の舞台である1990年代の時点では科学系の要職に就いている科学者でして、しかもその上さらに2000年代に入ったら大統領まで務めているという想像以上に物凄い人物でございました。
日本人である私は調べてみるまで名前すら存じ上げておりませんでしたが、本作はタミル映画でして地元タミル・ナードゥ州出身の教育で名を上げた偉人を引き合いに出したってことですから、多分この本国の観客には相当なインパクトのあるシーンだったのではないかと思われますねえ。
ちなみに、この「金を稼ぐ方法は山ほどあるが尊敬は教育からしか得られない」というせりふですけれども、そういえばこのせりふで思い当たる別のインド映画があったなあと思い出しましたよ。
『きっと、うまくいく』というこれまた教育をテーマにしたインドの映画では、3人の主人公のうちの一人であるランチョーの父親が確かこれの逆でした。
金は山ほど持ってて慕われているけれども、学がないから表面上は本心のところではみんなに馬鹿にされているという話でございます。
だから息子のランチョーを同じ目には遭わせたくないので大学に行かせようとしたものの、ランチョーも勉強嫌いのとんちきだったので代わりに勉強好きだった自分の召使いの息子をランチョーの替え玉としてインドの最高峰の工科大学に送り込み、ランチョーのために学位を取らせようとした、という展開がありました。
なのでつまりは、本作で主役として出てくるランチョーは実はランチョーではない、というのが話のオチのひとつでしたねえ。
おっと、期せずして『きっと、うまくいく』の重大なネタバレをぶち込んでしまいましたが、気にしてはいけません。
突拍子も無い展開がインド映画とウサオジのブログの醍醐味でもあるのですから。
とは言ったものの、私としてもまさかインド映画の話をしていて別のインド映画を引き合いに出すことがあるとは思いませんでした。
油断していると芋づる式にインド映画の話が出てきてしまう。
日常生活でもたまにインド映画を引用したくなるときがありますから、とんでもないことでございますよ。
さてと、気を取り直してこの「金を稼ぐ方法は山ほどあるが尊敬は教育からしか得られない」という言葉について考えてみますと、言い換えたらお金で尊敬を買うことはできないということでしょうかねえ。
いくら口座の残高や株式を持っていたとしても、阿呆間抜けでは決して尊敬を得ることはできないということでございます。
お金のような自分の外にあるものではなく、自分自身に帰属する知性のようなものが本当に優れていないと尊敬を得ることはできないと、そういうことが言いたかったのではないかと思います。
さて、他には本作でバーラ先生が教育とはどういうものであるべきか語るところも印象的でございました。
曰く「教育は神への供物の残り物のようにみんなに分け与えられるべきで、五つ星ホテルの料理のように扱われるべきではない」とのこと。
本作の悪役でも私立教育機関の経営者が教育をビジネスと捉え、いかに教育を通じて人々からお金を巻き上げるか考えている一方で、バーラ先生はこんな風に考え、最初は公立学校に通うことすらままならなかった子供たちに教育を授けていく。
そして、2人のこの考え方の違いから衝突が生まれたってわけですねえ。
そしてこれは終盤のネタバレではありますけれども、最終的にバーラ先生の教え子はインドの共通試験でその私立教育機関の生徒たちよりも秀でた成果を叩き出すのでして、ここの逆転劇も実に面白い。
その結果を受けて、なんと私立教育機関の経営者はバーラ先生の教え子を買収して自分の教室の手柄にしようとするのでございますよ。
そして驚いたことにバーラ先生は教え子たちに、相手が金を払いたいのならもらっておきなさいというのでして、むしろ積極的に買収されることを促すのでございます。
その上でバーラ先生は、「質の高い教育にはそれに比例して金を払う必要があると言っていた人間が、逆に学生の学力を買うために金を出す」というようなことを指摘するのですけれども、ここが今回の悪役の成敗シーンでしたねえ。
見事なまでの成敗。
力ではなく知恵による成敗、お見事でございます。
続いて、その他には教室のカースト差別を克服するシーンも印象的でございましたよ。
教師がいなくなった公立学校でバーラ先生は2つのクラスを同時に受け持つことになるのですけれども、それで2クラス分一緒に授業をやろうとしたところ、カーストの問題で2つのクラスの生徒が揉めて一緒に受けられないと主張しだしたときに取った手法が面白いのですよ。
片方のクラスにある内容の授業をし、もう片方のクラスにはまた別の内容を教えたのちに、「さあ、今日は2つのことを教えた。同じ授業を2度するつもりはない。明日はこの2つの内容についてテストを行う」と言うのでして、それを受けてそれぞれのクラスの生徒はもう片方の内容を習っていないというのでございます。
それで結局、2つのクラスの生徒はカーストの差を越えてお互いに習ったことを教えあうことになるのですけれども、ここでバーラ先生は「相手のことが必要になれば、カーストは問題ではなくなる」というようなことを言うのでして、鮮やかな差別の解決方法に関心してしまいました。
身分よりももっと重要なことが出てきたら、身分はもはや問題ではなくなってしまうということでしょう。
さて、ここまで敢えて触れてこなかったのですけれども、本作のタイトルは『バーラ先生の特別授業』でございます。
一体何が「特別」なのでしょうか、と言ったところではありますけれども、実はここにも一工夫あって、なるほどこれは「特別」だと言わざるを得ない方法で授業をするんですよねえ。
原題は『Vaathi』でして、どうもVaathiというのはタミル語で「先生」という意味らしいので、原題はかなりシンプルなタイトルではありますけれども、インド映画に限らず翻訳映画にありがちなこととして、時折妙に長ったらしいとんちきなタイトルが付けられることがあります。
しかしながら、今回に限っては実に捻りの効いた巧妙なタイトルでして、教育の質が低い公立学校で質の高い教育を行うこと以外にも、何か他の「特別」な要素があったんですねえ。
このブログはもはや私の備忘録的なものでもありますからネタバレ承知でぶっちゃけますけれども、終盤で私立教育機関の経営者の術中に嵌って学校からも村からも追い出されたバーラ先生は、村に映画館を持っているビデオ屋の力を借りて生徒を村の映画館に集め、自分は別の場所で授業をするという、いわゆる遠隔授業をしたのでございます。
映画館で遠隔授業を始めるという物凄く物凄い発想でございます。
しかもこれ、今みたいにインターネットが発達した時代ではなく1990年代が舞台ですから、これがどれくらい物凄いことなのかはもはや計り知れない。
なので、この仕掛けが発動したときには、思わず「それで『特別』授業」だったのか、と一人納得してしまいましたよ。
この解釈がタイトルを付けた人の意図と一致しているかは確かめようがありませんが、少なくとも、当たらずとも遠からずといったところではないかと思っております。
実に、これはまごうことなき「特別」授業でございましたねえ。
いやはや、今回も随分と語ってしまいました。
普段は1000字未満のいい加減極まりない文章をちゃらんぽらんにでっち上げているくせして、含蓄のあるインド映画の話をするときだけ途端に気合の入った長文をこしらえてくる、これがウサオジのブログでございます。
というわけでして、次回のインド映画まではまたしばらくちゃらんぽらんで行こうと思います。
おしまい。
