妻が細菌感染て1週間点滴生活となり、毎日病院への送迎をしてきた。妻は身体の自由が利かなく、生理になってのダブルパンチもあり、ずっとイライラしていた。愚痴を辛抱強く聞かなければならないし、気に食わないことがあるとすぐにキレる。そしてどうしてそういう気に食わないことをするのかという原因追及をネチネチとやり、いつも結論は私の両親の育て方に問題があったとか、発達障害だという話になる。これが毎日繰り返されるので本当に息苦しい。
一番受け入れがたいのは、妻の認知の歪みによる言いがかりのとき。ここにあるはずのものがない→お前が動かしたに違いない、のような一方的な決めつけだ。心当たりがなくても、あるいは論理的に考えて私がするはずのないようなことであっても、その抗弁は一つも採用されない。妻が無謬の人間である、という前提に疑義を挟むと発狂するまで抵抗する。妻か間違うことはない→妻に身に覚えがない→私がったに違いないの三段論法の乱発て、私の身に覚えもなく証拠もなく論理的に考えて無理がある結論であっても、私がやったことになる。冤罪を認めさせられるのは本当に気分の悪いことだ。それがあまりに続くので、カッとなって殴りたくなってしまう。手が出る前に離婚してしまったほうが良いのかもしれない。
とりあえず相手は自分より知能が低く、誤りを認められず、認知が狂っていう哀れな存在だと思いこむことで、ギリギリのところで手の震えを抑えている。結論として私が馬鹿で邪悪で愚かな存在になったとしても、妻の心の内で、「自分が無謬の存在である」という自己認識が毀損しなければいずれ心が宥められるのだ。馬鹿で邪悪で愚かな存在という前提のもとに、それ以降の私のアクションへの信頼性が損なわれることはない。妻はその場その場で自己保身したいがあまりに相対的に私を貶めているだけなので、自分が夫に下した評価を記憶していることができない。ただ私はそれをしっかり記憶しているので、心にもないことを言っているんだとしても、何度も何度も深く生傷をえぐられて顔が歪む。
自分の言い分が採用されず、冤罪を認めされられ、自分に嘘をつき続けていると、幸せな気持ちを感じにくくなり、幸せな感情を感じることが怖くなってくる。自分の価値基準があべこべになって何が自分にとっての幸せかわからなくなるし、仮にこれが幸せかもしれない、と思っても、どうせ長続きしない、また無慈悲に奪われると虚しく思ってしまう。定期的に確実に訪れる不幸な気分で受けるダメージを極力少なくするために、幸せでいないように防衛本能が働いているのだろう。そうすれば幸福から不幸への落差が小さくなるのだ。書いていてなんて自分が惨めな存在かと思う。食糧が手に入らなくなる可能性を考慮して、あらかじめ飢えに慣らしておこう、みたいな感じだろうか。その辛気臭さがまた雪国生まれの人間っぽくて気持ち悪いと言われそうだ。
屋外にいると遠くに救急車のサイレンが聞こえる。その音が一向に近づかない。そしてそれが幻聴であることに愕然とする。ギリギリだ。ただ、まだ死んでないし、誰も殺していない。