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寂しがりたい私たち

最近YouTubeで懐かしアニメの「みかん・絵日記」を観ている。期間限定で公式から配信中なんだそうだ。嬉しい。毎回オープニングを元気よく一緒に歌ってしまう。内緒、内緒のバイリンキャーット。
みかん・絵日記」はかれこれ30年以上前に放送していたアニメである。人間の言葉を話せる猫・みかんとその飼い主の少年・吐夢(とむ)を中心とした日常系の物語だ。子どもだった私はこのアニメが大好きで、原作の漫画もお小遣いでちびちびと買い集めていた。あの頃お小遣いはほとんど漫画や小説で使い切ってたな。今も似たようなものだけど。
とにかく昔から「動物と話せる」「動物が身近である」といった漫画が好きだ。
お月様の力で人間に変身できる猫が主人公の「ねこ⭐︎ねこ⭐︎幻想曲」、動物と共に森で暮らす小人族のお姫様が人間と出会って様々なことを経験していく「銀曜日のおとぎばなし」、飼い犬マメタロウの視点から人間模様を描く「まっすぐにいこう。」、チビ猫を可愛らしい少女の姿で描いた「綿の国星」、とにかく動物がたくさん出てくるコメディといえば「動物のお医者さん」。
このあたりの話をツイッターでポロリとすると同世代のフォロワーは誰かしら反応してくれる。女オタクは子どもの頃動物漫画好きでいがち説を唱えたい。このカシオミニを賭けてもいい。



そんな動物漫画にどっぷり浸かって育った少女は今BLをがっつり読んだり書いたりしている。人間社会の恋愛についてさも色々分かっているような顔をして読んだり書いたりしている。恋愛どころか人間社会のコミュニケーションの基本すらよく分かっていないのに、である。
あるいは分からないから読んだり書いたりしたくなるのかもしれない。人が人に手を伸ばす物語を通して自分が経験してこなかったコミュニケーションの奇跡をなんとか信じようとしているのかもしれない。
私が動物漫画を好きなのは、多分人間社会についていけない部分が私の中にたくさんあるからだ。
動物や人間以外(小人族の姫、ポーなんかもそうだ)の小さな生き物の視点で人間社会を見つめるとき、そこには個人としての寂しさがひっそりと浮かんでくる。どうすることもできない人間関係だったり社会の構造だったり、それにまつわる悲しみを小さな生き物たちは優しく見つけてくれる。それが社会的に不出来な子どもだった私には響いたのだろう。
日常の中の取るに足らない、「そりゃ確かにしんどいけど、でもいちいち気にしてたら生活やってられないよ」という悲しみや寂しさを動物漫画は切り取っていることが多い。お気に入りのキャラクター鉛筆がどんどん短くなってしまうのが悲しいとか、そんな程度のことでも子どもの頃は確かに深刻な問題だったはずなのだ。
もちろん漫画なのでいい感じに起承転結があって奇跡の解決がなされたりするのだが(そのための喋る能力、変身能力、人間の言葉を理解できる設定である)、小さな生き物たちによって小さな、そして不変的な寂しさを見つけてもらえる、というところこそが私は好きだったのだ。それは寂しいと思ってもいいことなんだよと言ってもらえるような漫画ばかり読んでいた。
その影響だろうか、自分の中で眠っていた寂しさをわざわざ揺り起こし、その寂しさを受け入れることでようやく世界に小さな居場所が出来る、そうさせてくれた唯一の人がいる、みたいな話ばかり書いてしまう。広い世界に放り出された、小さな生き物みたいな存り方をしている人間二人ばかり追ってしまう。手の中にすっぽり隠せてしまう小さな喜びを、その人にだけそっと見せて声もなく笑い合うような瞬間ばかり目指してしまう。
昔からそんなのばっかりいろんなジャンルのいろんなカプで書いてきたが、基本的にどこのカプ村でもさっぱりウケない。理由はいつだってシンプル、私の文章がものすごく下手だからである。
もちろん人それぞれBLに求めるものが違うというのもあるだろうが、上手い人はやはりどこへ行っても何を書いても多くの人の心に響くものを作り出している気がする。
静かに脈打つ悲しみや今にも消えそうにゆらめきつつ燃える喜びを読みやすく伝わりやすく、それでいてわざとらしくなく表現するというのはとても難しい。
元々人間同士の恋愛というものをよく分かっていない上に無学無教養な私である。どうにもこうにも文章が下手だ。もっといい感じにこの二人のことを書き上げたいのに。悔しい。でも書きたい。もっと上手く理想を形にしたい。でもできない。悔しい。
きっと死ぬまでこんな調子で悔しがってると思う。死ぬまでBLが好きだろうから。
書いた本人すらもっといい感じに書きたいのに書けないよ〜とキーキーなってるくらいなので、当然他人に読まれるわけもなく、どのジャンル県カプ村にいても「何が書きたいのか全然分からん、一人だけノリが珍奇な化け物」みたいなポジションで村の柵の周りをウロつく羽目になるのだが、ただただ文章がド下手なだけでそのカプを愛していることに変わりはないため警戒しないでほしい。書いてて悲しくなってきたな。文章が上手くなりたい。
そんな化け物にも、ジャンルによっては稀に柵の向こうから声をかけてくれたりする村人もいる。そういう人はきっと、私と同じように物語の中に息づく寂しさを感じ取りやすい、というか感じ取っていきたい人なのだろうと思う。よく漫画に出てくる共鳴というやつに近い気がする。仲間とかに出会った瞬間頭キーンてなってハッと気づく的なやつ。あれや、あれ。
文章がどれほど下手でもそういう見つけ方をしてもらえるのが趣味でやる創作のいいところだ。
しかしまあ、現実の日々の中でもう充分過ぎるほど寂しく辛い思いをしているというのに、一体どうして我々はまだ寂しいものを読んだり書いたりして求めてしまうのだろう。それもほじくり返してようやく見つかるような寂しさを。もうとっくに大人になり、ともすれば小さな生き物の視点を塞ぐ側に回っていないとも限らないのに。


なんだかんだとセンチメンタルな理屈を捏ね回してきたが、それはそれとして好みのすけべが更新されていると私の心の中のすけべの悪魔がすけべ最高!すけべ最高!と踊り出すので、人がBLを読む理由というのは一つに限らないのだろう。BL好きな理由って200億種類あんねん。多分。




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