瞑想にも流行りがあるのか、近年はジャーナリングがよく提案されていますね。
わたしもトライしてみましたが、結論から言うとわたしはジャーナリングを手書きでやるのが苦手で、思考を手書きしようとすると、グラフや図、フローチャートのようになりがちです。
手書きのジャーナリングは苦手だけど、グッドタイム日誌ならできるのがわかっていて、今年からつけています(参考)。
実際はインタレスト日誌で、今日あの人がこんなことを言ったのがおもしろかったというメモが半分以上です。
この日誌を読み返していると、他人に興味があることがよくわかります。
ぜんぜん人間嫌いじゃないし、人間が好きでおもしろいと感じています。
自分は他人と接したがっている、というのがよくわかります。
手書きの最中に起こるバグと脳のクセ
タイピングだと漢字の変換候補が出てきますが、手書きの場合は文字を自分で探さなければなりません。
わたしのノートの上で、こういうことがたびたび起こります。
どこかが変でしょう。以下はヨガの勉強ノートにあった文字列です。
↓

文字を創造してしまう
上記は、英語の本を読みながらそれを日本語でメモした文章です。
元の英語はこうでした。
Mind is a flowing thing, it is not static.
You can’t arrest it, or bottle it up.
bottle it up を「ビン詰めにできない」と頭の中では理解して訳しているのだけど、それを理解する時に浮かんでいる脳内映像が、
以前どこかの観光地のお土産やさんで見た
空気の缶詰
目に見えないものを封印するのに、ビンじゃなくてカンを想像しています。
それで、つい言偏(ごんべん)の右に「缶」と書いてしまう。
そんな漢字は存在しないのに。
ヴィジュアルで決めつけてしまう
わたしはこういう間違いが定常的にあって、手書きのノートには辞書にない漢字がけっこうあります。
メモをする時に「締め切り」よりも「〆切」のほうを選ぶのが、人間ってものじゃあ、ありませんか?
まだスマホがない頃にはじめて東急線の「等々力」(とどろき)へ行こうとした時に、脳内で「轟」しかイメージしていなかったので、二子玉川から2駅目と教えてもらっても「とどろき駅がない!」と混乱しました。
画数のギュッと詰まった文字を最初から探しに行っているので見つからないのです。
音でも似たことがある
音で認識しやすい方法を自然にしていることもあります。
よく名前が思い出せない時に、
友人同士で
「なんだっけな、あの監督よ・・・。UFOキャッチャーみたいな名前の・・・」
「ああ、デヴィット・フィンチャーね」
みたいな会話をすることってありませんか。
わたしはけっこうあります。
ジャーナリングは「自由に」ってことなんだろうけど・・・
こんなふうに、わたしは自分の思考を文字で外に出そうとする時には、客観的な読み手の存在が必要です。誰にも見せない前提だと、自分の漢字変換世界から沼にはまってしまいます。
なので漠然と誰かに見せることを前提としていたほうが、アウトプットしやすいです。
完全にひとりの前提だと、さっきのビン詰め→カン詰の際に
「空気の缶のお土産を売ってたのって、どこだったっけ・・・富士山かな・・・」
→「商品化したらどこの缶詰が一番高く売れるかな・・・チョモランマかな」とか
「いや、なんかのギャグ漫画で読んだのかも」
などと連想をはじめてしまいます。
この思考はとても速いので、文章では書けません。
ジャーナリングって、けっこう大変じゃないですか?