いやー、笑った。
こんな自我の追求のしかたがあったか。
「好きな食べ物」だけでなく「食べ物についての問いへの答え方そのもの」も同時に追求しながら、段階を追って周囲を検分していく様子に笑う。
他人に公言する「好きな食べ物」って、確かにコミュニケーション能力を瞬時に発揮してる。
わたしもこの種の質問に対しては毎回「どの範囲で?」と逆に質問したい気持ちを抑えながら考えて、食べ物の場合は「エビ」と素材で回答してしまう。
だけど「ビリヤニ」や「ドーサ」について立ち話で語れば「どれだけ食べ歩いてるんですか!」と言われるくらいには都内のあちこちで食べていて、こっちのほうが「相当こだわりがあって好きなもの」に見えやすい。
こういう逡巡はどなたにでもあろう。
その、どなたにでもある逡巡を、真面目にとことん、細かくやる。
そうこうしているうちにスピリチュアリティや真理に近づいていくかのような瞬間もあって、この本で語られていることは
存在について
だったりする。
ヨガや仏教的にいうと「Tat Sat」や「Sat Chit Ananda」について語られています。
この文章に打ちのめされました。
たとえば好きな人がいるとして、その人を好きであることが、会いたさにのみ純粋に宿ると感じること、ありませんか。
どこのスワミの説法でしょうか!
これはチーズケーキの話の流れで出てきた一文です。
後半になると、さらに経験値からの真理探究が研ぎ澄まされていきます。
ねえ、好きな人っている? と中学生は修学旅行の夜に聞く。恋の本質として、好きな人の名前は聞かれても誰にも言ってはいけない。大人はみんな知っていることだ。言うと、本当に好きになってしまうから。
それな!
と思うのだけど、著者は ROUND1 のフードコートの話をしています。
成城石井そのものの存在の捉え方が的確
成城石井でも食べ物が探されています。
わたしも成城石井というスーパーをいろんな駅の近くで見ます。
ですがいざ店内に入ると「なんかいけすかねぇ」という気持ちが漠然と湧き上がって落ち着きません。
この「いけすかねぇ」の前にある「なんか」の正体を著者が解明してくれました。
普通のスーパーにはない、何が起きているのか分かるようで分からない感じの「見たことない」が、成城石井では頻発する。
このように整理してもらえると、ああそうか!!! と気づくことがあります。
以前働いていた会社のオフィスビルに入っていた成城石井では、だんだん慣れてきたことでこれが起こりにくかった記憶があるのです。
そう。わたしはずっとそれを「成城」という地名のいけすかなさと混同していた。
その商品ラインナップに感じる「微妙に見たことないものが頻発してなんか怖い感じ」を「いけすかねぇ」に無理やり混ぜこんで敵視していたのでした。
自分の嫌な面を発見する方法としてこの流れはあまりにリアルで楽しく、ここでも大いに笑いました。
料理という活動へのコンプレックス
「下手でもおいしいオムライス」という章に、こんなくだりがありました。
私は料理が苦手で、実はあまり好きじゃない。元来のせっかちな性格が、料理という活動の持つ要素のひとつひとつにていねいに反発するからだと思う。
わたしも、実は料理を楽しめるようになったのがここ数年のことです。
デフォルトの好き度で運動が5だとしたら、料理は1でした。それが近頃2から3になるかもしれないくらいの段階です。
この5から3への変化の間に何があったかというと、まさにこの一文にある「要素のひとつひとつにていねいに反発」の、”ていねいさ” の喪失です。
この本を読んでいると著者は感情の出どころに対して、とてもていねいに向き合っています。
そうすると脳は短時間でキャパオーバーする。だからせっかちになる。
こういうことって、あるよな・・・と思いながら読みました。
* * *
すこし前に「今年誰かとつながるのに役立った、読んでよかった、ここに感想を書いてよかった本」にも書きましたが、この人の視点の言語化が好きだという人が見つかると、日常が楽しくなります。
この本を読んだら、「好きなヨガポーズがみつからない」「好きな色がみつからない」も同様に、その問いへの回答はあくまで “枠” で、人生経験を背負った意思をまとめる・決めるという行為、その瞬間の責任を果たすことだとわかります。
ヨガ的にいうと「サンカルパ 」の話をしています。
大爆笑の哲学書でした。