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むかし自分で決めてきたこと

先日、友人と食事をした際にこんな話をしました。

学校やバイトで知り合った人たちとの集いで、「むかーし、こういうことってなかった?」と。

異性の友だちに流れで誘われた場に同行して、「これはちょっと立ち回りがむずかしい感じだな」と思ったときにどうしてきたかの話をしました。

 

異性の友だちを仮にA君としたら、A君の先輩やA君の仲間である人たちの輪に入るときに、どう振る舞ってきたか。

 

 

  *   *   *

 

 

「わたし、玄関で靴脱ぐときに大きい靴ばかりで、帰ってきたことがあるよ。A君には ”んー、なんか思ってたのと違う” と言って」

 

 と話したら、

 

友人は「言ったんだ・・・」というリアクション。どうやら彼女は言わずに切り抜けてきたみたい。

 

 

  *   *   *

 

 

こういう瞬間の判断って、多くの人が経験していてもオープンには共有されないものです。

A君の悪口みたいになるし、同時に自分のプライドの話でもあるから。

 

そしてリアルタイムで語られないもう一つの理由に、大きな靴の中にごく少数混ざっている女性サイズの靴の存在があります。その靴を履いてきた人が「このあと、うちこさんも来るよ」という前提でそこにいる可能性があった。

実はここが立ち回りをむずかしくさせるところでもあって、文章化できません。

 

 

A君に恥をかかせるだろうという気持ちと、自分の気持ちを天秤にかけ、後者を取る。

女性サイズの靴の持ち主を裏切るかもしれない自責を断ち切る。

A君は単体では悪い人ではないのだけど、いま、なんらかの力学に巻き込まれている。

一瞬で判断を下さなければなりません。

 

 

 

わたしの場合は学生時代にこういう判断を何度か経験していて、A君に該当する人が謝ってくれることを想像しなかったし、実際、謝られませんでした。

何も起きていないし、何も起きない状況を可能にしたのは、そのときのわたしの判断です。

透明の味方がわたしを護り、透明の事実が「何も悪いことが起きない」を可能にした。

ゼロというのは何もないのではなく、「何もない状態が "ある"」ということ。

(これはインドの人が見つけたゼロの概念です)

 

 

そっちの道を選んだのは、わたしがたまたま、ある種の虚栄心(この場合は  “屈託のないオープンな人” でありたい気持ち、あるいは “器用な人” “バランス感覚のある人” という賞賛を得たい気持ち)を捨てる判断をしたからで、これは知恵というより運動神経。

社会的ワイルドセンスです。だから言語化できない。

 

 

そういう準備運動を学生時代にやってきたので、社会人になってからは自動的に警戒してきました。

A君的なポジションの人に貢献できずに自分の立場が悪くなる場合には、立場が悪くなる道を選んできました。そしてやはり、実社会でもそういう誘いは起こるのでした。

この話は一年前に書きました

 

 

    *   *   *

 

 

学生の世界でも社会人の世界でも、A君的なポジションの人が媒介になる「力学」について、それがA君の欲によるものと解釈されている限り、A君に恥をかかせるだろうと葛藤したわたしのやさしい気持ちも理解されることはありません。

「理解されたい」という気持ちに正直になる方法って人それぞれだと思うのだけど、「理解されないものだ」という諦めが少なくとも半分はないと、「理解されたい」もまた別の欲とみなされます。

 

 

信念とか信条とか、外側から見て「軸がある」などと漠然と表現される選択の芯は、葛藤も含めた人生経験の統合を経ないと辿り着かないものです。

 

 

 

ずっとその連続なんですよね。しっかり立っていこう。




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