20代後半の女性の葛藤がギュッと詰まった本を読みました。
ウェブメディアの世界で活躍されている、大阪出身のライターさんのエッセイです。
ネットでクリックされ拡散されリーチを増殖させる文章を書いていると、自分の中にある毒にすらうまく反応できなくなって、心が盲目の聖人のようになっていく。そういう感じって、あるよなぁと自分の過去を重ねながら読みました。
意識していないとやっぱりそうなってしまう。だから何度も立て直す。
読みながら文章がものすごく抑制されていると感じるのは、あとがきでご本人が女性の置かれた立場や二項対立を招くのが本意ではないことを理由として書いていたけれど、単純に人生の転機を華々しく見せたい、若々しい気持ちへの反動ってことはないだろうか。
だって長らく結婚はそういうものでもあったのだし、男女の身体は生物的に20代で結婚することが合理的なデザインになっている。心も身体の一部なのだから、自我がその頃に大きく花開くのは自然なこと。で、はじけられればいいのにね。
嫉妬されすぎないように全面的に気を使う「させていただく」のバランス感覚は、SNSの時代に必要な賢さなのかもしれないけれど、その抑制の必要性を女性の置かれた立場のせいにしてしまうと、そこにある何割かの嘘がまた新たなフラストレーションを生み出す。
王子様もお姫様も存在しない結婚という現実的な転機について、考えるべき時代の到来を感じます。
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いろんな話が収録されているなかで、漠然と “村田沙耶香さんの小説の登場人物みたいな気の回し方だな・・・” と思っていたら、千里ニュータウンで育ったという話が何度か出てきました。
自分のルーツに濃いものはない、あるはずがないと思っている人が、その対極にある淡さと繊細さの力を振り絞って放つ「だけどわたしを見つけて!」の叫び。
これがなんともニュータウン文学という感じがしておもしろくて、わたしの知らない世界。
京都の人の洛中と洛外のように、大阪にもコテコテと非コテコテのボーダーがあるらしい。そういえば新潟にも昔は豪雪と非豪雪がありました。
今は地球温暖化でかつてのデフォルト的な豪雪が消え、「ドカ雪」と言うようになっています。これと同じように、大阪も以前のコテコテではないのでしょう。
このかたの文章を読んでいると「ウォッシング」に対する感覚が刺激されるのは、ちょっと面白い感覚です。
そう思うと「させていただく」は謙遜ウォッシングだし、「これもメッセージ」は宇宙意識ウォッシングに見えてくる。雑に発せられ増殖するムーヴメントを冷静に見る筋力が動き出します。
薄っぺらいものを虚しいと感じる苦しみがいろんなトピックの中に散りばめられていて、そうそう積極的な伝達業務のカルマってこういう感じ。
法則は知っているし慣れてはいるけど、わたしはこのパターンの中にいることをそろそろ終わりにします、と区切りをつけていくことについて、見栄とプライドと現実について、ふわっと何かを思い出しながら読んでいたらあっという間に読み終えてしまいました。