先日「いいからお前は黙ってろ」と、まるで向田邦子ドラマに出てくるお父さんのようなセリフが頭の中に浮かびました。心の中の、頭の中の声です。
わたしが考えながら手を動かしている間に、「そこはそうじゃなかったよね?」と不正確さを指摘してくる人がいてイライラして
いいからお前は黙ってろ。
と言いたくなりました。
正確さを問うてくる、わたしをシラけさせる存在
「そこはそうじゃなかったよね?」と言ったのも、「いいからお前は黙ってろ」と言ったのもわたし。
これは些細な瞬間に立ち上がる思考です。三人目のわたしが「まあまあまあまあ」とやって仲裁します。
不正確さに対するツッコミって、誰にでもできるチャチャ入れなんですよね・・・。
それを自分に対して自分にするわけなので、客観的に見ると二重にも三重にも自分が愚かしく感じます。
たとえば料理
ここは順番通りじゃないとかレシピ通りじゃないとか、そういうことがスルーできるようになるには、回数を重ねて「ま、ここはテキトーに」とイメージを持てる自信を獲得しなければなりません。
植物を育てるのがうまい人はカンでそれをやり、おしゃれな人は着こなしでそれをやります。
そのなかには「不確実性への不安」と「小さな癇癪」と「実際の失敗」に向き合った経験が含まれています。
自分自身に慣れることは、モブの発言に慣れること
近頃気づいたのですが、自分のこの 「そこはそうじゃなかったよね?」「いいからお前は黙ってろ」の会話に慣れるプロセスはヨガのポーズの練習と似ています。
自分の中で「ああ、もうやめちまえ! やめたやめた!!!」となる引き金は、大なり小なり癇癪です。
ヨガを何年もやっていると、「ああまたやってる」というマインドを何度も見ることになります。これがいわゆる「オン・ザ・マット」というやつです。
閉じこもりの手前で起こること
正しさで自分をシラけさせる存在に対して「いいからお前は黙ってろ」も含めて観察する。
ヨガの解説書を読んでいると、瞑想中に起こっている障害はこれだろうと思います。
若い頃はあこがれや目標にわかりやすさがあって、「ああなりたい!」と目指しているうちに、正しさで自分をシラけさせる存在を脇へ置いておいたまま進められる瞬間が多くあります。
これができにくくなるのが中年期の脳。実際に血中ホルモンの数値が変わってきます。(これについては、先日経験談を書きました)
「ああなりたい」「これをやりたい」を推すドーパミンが、正しさで自分をシラけさせる存在によって阻害されてしまう。
直近のわたしの例
先日、絵を描きながらまさにこの現象に捕まりかけました。
友人のダンスの発表を見て感動し、会場が撮影禁止だったので脳内に記憶したポーズを描いて「この瞬間がかっこよかったよ」と伝えたいと思いました。
その途中で、「正しさで自分をシラけさせる人」が喋りだしました。

「靴が黒だった」と、その「正しい人」がうじゃうじゃ言ってきました。
だけどわたしは友人のまっすぐの脚と、曲げた右脚の角度がかっこよかったことを伝えたい。そのために、靴は白でいい。白がいい。
「靴は黒だったよね」という声を疎ましく感じました。それも自分なのに。
こういうのって、なんなんでしょうね。
完璧主義の子分みたいなのが、何かを言いつける風紀委員のように喋り出す。
この存在の扱いに慣れていくことが、自分を知るとか、スタイルを確立するってことなのだとしたら・・・。ゆるく軽快になんでもやっているように見える人でも、実際はこれをやっている。
「こうじゃないんだよな〜」の中には「いいからお前は黙ってろ。」も入ってる。
入ってるんですよね。