有吉佐和子記念館へ行った際に(参考)、来訪者がコメントを残したノートを3冊読みました。
そこで『複合汚染』に影響を受けた人がとても多いことを知りました。
実際に読んでみたら小説ではありませんでした。
ページをめくると、タイトルとは関係のない参院選での選挙応援活動の話(雑談?)からはじまります。
活動中にすれ違って挨拶を交わす石原慎太郎、野坂昭如といった作家仲間の名前から、当時の流行作家が政治に影響を及ぼしはじめた時代の空気がよくわかる、そんな日記のような話が長く続きます。
この本は小説ではありませんでした。
- 小説ではなく、ガーシー的な何か
- 生活者へ環境汚染への加担を訴える
- 本当に存在したのかわからない話し相手「横丁のご隠居」
- 上手にエクスキューズを入れている
- 煽りながら啓蒙するスタイル
- 小説にしようがないことに気づいた経緯の記述
- 余談:8月22(金)に横浜で上映される映画の話
小説ではなく、ガーシー的な何か
最後まで読むと、この本は社会問題へ斬り込む “時の人” となったベストセラー作家が、自分の影響力のピークを自認した上で、新聞連載の場を最大限に利用した「活動」。
先の石原氏・野坂氏とは重ならない「主婦層」に読者を多く抱える著者の、これまでの積み上げを最大限に活かした活動であることが、今になるとわかります。
書評として語られる「小説として破綻している」というのは本当にその通りで、これまでの作品の美しさを知っている人ほど、才能の使い方のもったいなさや、がっかり感を抱くことになります。
だけどこれを、ひとりの人間が自身の社会への影響力とピークを読んで起こした行動として見たらどうか。
ポジションを理解し、その上で「会話調で伝える文才」を全力で発揮する。
破壊的な自己プロデュースを自ら行う勇気に凄みを感じます。
ヒステリックなエコロジーおばさん扱いされることなど百も承知。
わたしの受けた印象は
ガーシーみたい
この一言に尽きます。
生活者へ環境汚染への加担を訴える
これは小説ではなく、「活動」を読む文章です。
農薬・肥料・洗剤・食品添加物・排気ガスによる環境汚染と、それを許容している政府への質問や回答のほか、様々な取材が行われており、なんと本田宗一郎さんまで登場します。
『複合汚染』は『恍惚の人』のひとつ後の著作物で、それまでの連載には以下があり、『複合汚染』は女性たちへの影響力のピーク時に発表されていることがわかります。
- 1959年:紀ノ川(1959年1月号~5月号 雑誌「婦人画報」連載)
- 1964年:非色(1963年4月号~1964年6月号 雑誌「中央公論」連載)
- 1968年:不信のとき(1967年1月~年末まで「日経新聞」掲載)
- 1971年:夕陽ヵ丘三号館(1970年4月~年末まで「毎日新聞」連載)
- 1975年:複合汚染(1974年10月~1975年6月「朝日新聞」連載)
『夕陽ヶ丘三号館』では時間を持て余す若い女性がエネルギーを子供に向けて教育ママ化していく現実を描いていました。
その翌年は『恍惚の人』で認知症の舅(夫の父親)を家庭で世話する中年主婦の現実を描き、女性の読者層をがっちり掴んだところで『複合汚染』を発表されています。
今ふうにいうと、フォロワー数がピークに達したタイミングでの、渾身のネタ出し。
本当に存在したのかわからない話し相手「横丁のご隠居」
中盤から、近所のオーガニックライフお爺さん(横丁のご隠居)が登場し、著者が取材してきた内容をそのお爺さんに話して、そのお爺さんが意見を言うという形式が定着してきます。
このお爺さんの発言の中に著者の主張も混ざる。
これは、批判される側(厚生相や消費財メーカーや食品メーカーなど)から見たら、とってもずるい書き方に見えたことでしょう。
ずっと「このお爺さんは本当にいたのだろうか」と思って読んでいると、終盤で
「近頃は私まで有名になって、いろんな人からいろんな質問を受けるので迷惑しとりますぞ。今日で最終回というので我慢しとったのですが」
という発言で読者を楽しませています。
意地悪なやり方ではあるけれど、読者から教えてもらった話なども織り込みながら、新聞という媒体でできるリアルタイムなインタラクティブ性を盛り込んでいます。(ハガキを読むラジオっぽさに近い)
上手にエクスキューズを入れている
脱経済成長の主張は「横丁のご隠居」の発言になっています。
有吉佐和子という作家本人の意向は以下のように主張されています。
迷惑なものならなんでも公害にしてしまうのは、私はあんまり感心しない。 pollution with solution というのが私のスローガンなのである。
この辺の発言の分担が絶妙です。
二人で話す場面ではご隠居に「両方並べて書く方がフェアですな」と両論表記の必要性を語らせてバランスを取っています。
こんなふうに上手く書かれたのでは、批判される側の生活消費財メーカー、食品メーカー、各省庁も簡単には押さえつけられません。
煽りながら啓蒙するスタイル
この本は、当時大いに批判を浴びたそうです。
以下の文章を読むと、「そりゃ、そうだろうね」としか言いようがありません。
ひねれば火がつくガスレンジ(昔はマッチをすって薪に火をつけたのです)、そして電気冷蔵庫(買いだめがきき、物が腐りにくくなった)。
主婦にとって三種の神器は揃ったのだ。この上、もっと楽をしたいと望む女たちがいるのなら、彼女たちは三百三十六種の食品添加物と、お茶やお米や野菜や果物に叩き込まれている農薬で、きっと脳神経がいたんでいるのだろう。
ワンタッチの洗濯機は水しか使えないと思い込んでいるバカな主婦は、機械に使われている奴隷のようなものだ。
ものすごい煽り方です。
決定権を持つ権力者には、「わたしバカだからわからないんです。教えてください」という調子で出向き、主婦に対しては「頭を使え、賢くなれ、CMを鵜呑みにするな」と教育する。
当時も嫌われたようですが、今の時代だともっと嫌われるでしょう。
だけどこんな調子で新聞連載が続けば、まあ多くの人が読みますよね。
「ペンで戦う」の、昭和のスタイルとして自覚的。
今だったら、多くの人が思わずクリックしちゃうことでしょう。
小説にしようがないことに気づいた経緯の記述
「あとがき」は落ち着いた文章で、本編序盤の選挙応援活動の頃の記述には、小説にしようがないことに気づいた経緯が書かれていました。
水俣病の経過を見守っているうちに、私はだんだん私の小説の構想が色褪せたものになって来るのを感じていた。あちこちの向上に、新聞記者の前で排水を飲んでみせる工場長が現れたのを知って、私は完全に書くことを放棄してしまった。
石牟礼道子さんの『苦海浄土』が出るに及んで、私はもう公害というものは小説という虚構で捉えることができないのを思い知った。事実の重みが、あまりにも大きい。事態は、小説という読みものにのせるには、あまりにも深刻だ。
わたしが小学生の頃、公害といえば水俣病とイタイイタイ病と四日市ぜんそくで、何度も社会科の授業でインプットを受けました。教科書に載っていた写真も、今の感覚でいうとけっこう攻めた教育でした。
四大公害のもう一つは新潟の阿賀野川の「新潟水俣病」。水銀=水俣病というのが有名になりすぎて、そういう名前になったのでしょう。
* * *
家業と家父長制がつくる女性の精神性については『華岡青洲の妻』で、
日本では感じることのできない人種問題については『非色』で、
人間の業と思考を小説のかたちで教えてくれた著者ですが、公害はあまりにもリアルタイムで動きすぎて、ちんたら構想を練っている場合じゃない。走りながら考えよう。
ということだったようです。
余談:8月22(金)に横浜で上映される映画の話
今日の本の紹介を最後までじっくり読むような方に届けたいお知らせ(勝手に拡散)です。
こんな映画の上映会があります。
当日わたしを見つけたら、気軽に話しかけてくださいね☆