この本を読んだのは二度目です。
ずっと前に読んだことを明確に覚えています。
だけど当時はわたし自身の思考の拠点(自我のありよう)が混乱していて、ものすごく「おもしろい!」と思ったことだけ記憶しています。
まだヨガをしていなかった頃のことです。
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自分の内面的思考を整理して外に出すには時間と修練が必要で、意思はあるけれど言葉にしない時期を経るもの。30代の初め頃までは、ずっとそんな感じでした。
心に残る複雑な物語に触れると、あの瞬間にこう感じた、という断片が頭の中に散らかって、その中から自分の感想として他者に提示するものを選び取ることができませんでした。
Aを選んだら、それに反する思考B,C,D,E…を持っていないことにしなければいけない気がするのが嫌でした。社会的に不器用な真面目さです。
AもBもCもわかるけど、今のわたしはAに多く感情移入した。だけど5年前なら迷わずBだっただろう。その頃はこう考えていたから。そしてDは元来あまり好きではない考えだ。特に理由になるような経験はないけれど。──というふうに、自分の中にいくつも存在する意識とその部屋割りを整理できませんでした。
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だけど今なら感想を言える。
この『友情』という小説が、思考の変化を教えてくれました。
なのでこの本は特別な本です。
今日は最初に読んだ当時(20代)のわたしの混乱と、現在のわたしの感想を書きます。
なんでおもしろいの? と思って混乱した
この小説はものすごくおもしろいです。構成も文章も物語もすべて。
なのに20代のわたしは「なんでおもしろいの?」とわざわざ複雑に類推しては混乱し、こんな思い込みがありました。
- 教科書に出てくるような昔の本=大人への忠誠心を洗脳しようとしてくる
- 教科書に出てくるような人物が書いた本に、ヤバい思考は出てこないはず
自分の中で漠然と強い聖と俗の分類があって、武者小路実篤という文字列を勝手に聖に分類し、おもしろいはずがないと決めつけていました。
「キモいかもしれんけど純粋な俺」をていねいに開陳してくる
もう少年ではない、だけど中年でもない20代の男性のイノセンスの描き方が異常にうまい人。それが武者小路実篤。
20代の頃のわたしはたぶん、その言語化に畏怖した。
身近な男性たちの中にもこういう感情が当たり前にあることは、身体を取り巻く日常生活では口にしてはいけないものとされている。だけど昔の小説でとっくに名作として共有されている。本音と建前の真ん中で混乱しました。
この小説は「純粋な俺」を全力で書きながら、「キモいかもしれんけど」というメタ視点をちょくちょく入れてくる度合いと卑屈さの配分が完璧です。
そして、その友人がやさしい。この本のタイトルは『友情』です。
男性社会から発生したそれを女性が受け取ることが是とされる「あいつと付き合ってやってくれ」の圧のメカニズムが、美しくつまびらかにされています。
女性が意思表明をする
この小説のいいところは、登場人物の女性の気持ちがしっかり描かれているところです。物語の中で、女性が生身の人間として尊重されています。
それを見せる仕掛けが、ある時から軽快にポンポン進んでいく。だけどそれまでは、ていねいに隠されています。このていねいに隠されるシステムこそが、わたしたちを取り巻く日常。
この小説では、外面的日常とその正直な内部がしっかり描かれています。
後半は一気読み必至のリズムコントロールで、誠実な心を持って生きることのむずかしさが短い本の中に詰まっています。
しかも読後感がいい。清々しい。
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と、今日はこんなふうに感想をまとめたのですが、若い頃のわたしは、自分がこの本をおもしろいと思ったことを言葉にできなかったんですよね・・・。
この本に出てくる女性の思考と行為を「そりゃそうでしょ」と言えば槍が飛んできそうだし、主人公の気持ちを「わかる」と言ってしまったら無警戒すぎる。
そんなふうに、内発的な感情と自分の中に住まわせている世間の目線を同時に感じてフリーズしていました。
この本の感想はおばさんになってからじゃないと書けない。そういう本なのでした。
