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人は共依存的になることがあるのよね(『ジキル博士とハイド氏』読書会での会話から)

年齢を重ねていくと、相手を尊重して放っておくことができること、待てることの能力を問われる機会のバリエーションが、増える。増えるんだよねぇ。

先日、読書会でそんな話をしました。

 

相手が幼い子どもやティーンならまだしも、大人同士の関係となればブラックボックス化していく。そういうもの。

 

ジキル博士とハイド氏』は、誰かと誰かが共依存の関係でにっちもさっちも行かないときに、周囲の人が手をこまねく時間が同時に流れている小説で、善と悪の話にだけフォーカスしていると、ただの人格評論で終わってしまう。

そんな本を題材に、ああだこうだとお話をしました。

 

 

「うちの場合は違うから!」という論理が最前面にそそり立つとき

共依存関係の渦中にいるときって、どんな言葉をかけられても

 

 

  「うちの場合は違うから!」

 

 

という論理が最前面にそそり立って、解決を求めない方向へ意識が向かっていきます。

むしろ、どこか破滅したいと思ってる。

 

こういう経験って、できればしない方がいいのかもしれないけれど、わたしは経験があります。

精神を病んだ人と暮らしたことがある人はみんな、このフレーズを理解するよね。

 

 

役割と立場と観察と

この物語は、二つの立場で『ジキル博士とハイド氏』を観察してきた人たちが、最後に物語を動かします。

それぞれが立場・役割の壁を超えていく。

 

物語を評論家のように外側から読んでいたら「おせーよ!」と思う行動も、立場・役割の壁を超えていく経験に置き換えて読んだら、「おせーよ!」なんて、とてもじゃないけど言えません。

 

ここで行動が遅くなってしまうことの間にあるのは「尊重」であり「マナー」でもある。

この世に時間薬以外のものがあると信じて疑わない人は、鮮やかな解決に希望を求めます。で、壺を買ったりする。

 

他人を尊重しながら距離と境界を柔らかく維持することを、エーリッヒ・フロムは「愛っつーのは ”技術” なんだ」と書いたけれど、技術と勇気の発動には、縁と運とタイミングがあるし、その土台に、たぶん ”心がけ” がある。

 

 

必要なときに立場を超えて踏み込めるか、という人間の葛藤

 

 必要なときとそうでないときの境界は?

 そもそも、何のために?

 そしてこの保身の論理のぐるぐるは、何のため?

 ・・・ってゆーか、誰の人生?!

 

こういう葛藤の経験を、すべてが終わった後に武勇伝のように語るコンテンツが平成の時代にはあふれていたけれど、どうしたって武勇伝にはならないよね。

だって、ちょっと破滅したいと思ってた人がいたんだもの。

 

破滅願望とか破壊衝動とか「暴力」にカテゴライズされる感覚は、子供ですら抱く原始的なもの。

自分自身を守るための「怒り」のほうが、この暴力よりもポジティブな力になることもある。

それは自分自身を攻撃するのでなく、守ろうとしているわけだから。

 

 

   *   *   *

 

 

わたしは疲れた人向けの「自分にやさしくする」というフレーズを、いつも「よくわからないな~」と思ってきました。あれはキャッチコピーでしかない。

ジキル博士とハイド氏』は、「”故意に” 自分にやさしくしたら、やっぱりロクなことにならん」という話で、現実的なところをついている。

 

勝手に疲れて勝手にやさしくして勝手に破滅する。

自分の人格をコントロールできるのは自分の力だけだと思っていることは自己完結の共依存なんだよなと、ハッとさせられます。

そして、自分たちの状況をコントロールできるのは自分たちの力だけだと思うことも、共依存

 

人間はどこか共依存的になるのがデフォルトだからこそ、気分転換が大切ねー。

 

 

 

 




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