世代で区切った話はこのご時世よろしくないとわかっているけど、今日は私信のような気持ちでわたし自身の経験を書きます。
こういう発信ができるところがブログのいいところなのでね。
今日の話は、30代中盤くらいまでは想像もしないんじゃないかなと思います。
そんなわけで、平成生まれはスルーしてください。
はい平成は撤収解散! かーいさーん!
・・・さて。
それではまいりましょうか。
今日はここからが本編です。
後悔している自分がいる
少し前のことですが、このブログを読んでくださった方が、自分にも当てはまることがあったと、ご自身の気持ちを話してくれたことがありました。
わたしはこんなことを書きました。
「ストレスになるから人と交流しない」という選択が、
「自分の人生観を探求できない空虚感」という別のストレスと同居する。
ひとつの選択が別のストレスを生むのではなく、別のストレスと「同居」するんですよね・・・。
ヨガで調和調和と言われる理由って、こういうことなんじゃないか。
人生観を探求していないただの自己探求は、実は虚しいから。
「後悔」はひとりでやらないほうがいい
この気持ちを外に出したのは、たまたまでした。
40代になったのを機に婚活に終止符を打ち都会を離れて部屋を買い動物を飼いはじめた女性と話をしているときに、”がじょう” を築こうとする気持ちの話になりました。
こういう話に転じるのは、いつも偶然のタイミング。
この日はたまたま「自分は今せっせとレンガを積んでいる(←三匹の子豚のイメージで)」という自覚がある人と話したので、自分の言葉が出てきました。
40歳頃って、年上の独身者を「この人は楽しそうだな」「この人はさみしくてこうなったのかな」などと選別して勝手に想像して見ますよね。
見られているほうもわかっています。なのでこちらから扉を開けました。
その日はわたしが精神的に鎖国しない工夫を40代から少しずつはじめたこと、それをしてきたからいま話せているのかも、という流れを話しました。
「ストレスになるから人と交流しない」という選択が、
「自分の人生観を探求できない空虚感」という別のストレスと同居していた。
── という過去をあらためて振り返ることができた瞬間でした。
そのくらい、「ストレス」ってマジックワード。
これまでの人生の選択の理由は全部自分のエゴが後付けしたものと思っておかないと、なんか根っこの大切なところに影響してしまうんですよね。
外部から理由を引用・拝借するのが癖になると、自分の感覚の比率がどんどん少なくなっていく。この虚しさは「ひとりのときの脳内言語」と相性が悪いので、どんなに内省しても語れることがありません。
(いきなり座る瞑想をわたしがおすすめしない理由もこれです)

なぜ石を積んだのか。ただ石があったから。気分がそれを導いたから。
だいたいのことは、人に語れるような立派な理由も「後付け」です。