80歳を超え自らの死期を察知した段階から断食に入り、30日後に亡くなった人の物語を聞きました。
インドのジャイナ教の信仰で、サンレーカナ(あるいはサンターラ)と呼ばれる終末期の迎え方です。
断食に入ってから亡くなるまでの間は、本人の家へこれまで人生に関わってくれた人々が訪れ、お別れのコミュニケーションの期間になっていたとのこと。
それが宗教行為として認識されて、本人の意思が尊重されています。
以下の条件が揃っています:
- 自身が死期を認識していること
- 生きる意味を見失ったのではなく、魂の成熟による選択であること
- 家族・コミュニティの同意があること
* * *
これは、日本だと三番目の項目がむずかしいでしょうか。
2018年に評論家の西部邁さんが選んだ終末の行為について、本人の意思に従った知人の方たちが逮捕され、親族はその二人に対して申し訳ないことをしたと複雑な思いを抱えた。
そのような報道を目にした時に、インドのこの宗教行為を知っている人なら、わたしと似たことを考えたんじゃないでしょうか。
現代の価値観ではインドでも論争の題材になることがあるそうですが、死を魂の旅の一段階として捉え、寿命を察知した人にとっての魂の成熟による選択として、最期の断食を敬意をもって扱ってもらえる文化は、わたしにとっては憧れの対象です。
あと数十年のうちに、日本の倫理・死生観にも少しは変化が起こるでしょうか。
映画『ラディカル・ラブ』サティシュ・クマール巡礼の旅
先日観てきた映画の中に、この題材がありました。

生き方だけを考えると現世利益的になります。
この映画の中にあった終末期の断食による尊厳死の話は、他人の現世利益のために死を選ぶような思考に追い込まれない、自他が主体的に生きて共存する知恵として持続可能なものに見えました。
老衰してからの肉体の死は、生きる意味を見失ったのではない。
当たり前のことなのに、過剰に「意味」を求めることの弊害について考えさせてくれる映画でした。
今日書いたトピックは、映画の主人公のサティシュ・クマールさんの話ではなく、その周囲にいる人の話なので、映画の中ではほんの一部。サイド・ストーリーです。
ヒンドゥー教の人が死期を意識してバラナシへ行く話はこれまでにも情報としては本で読んだり話を聞いたりしていたけれど、この映画にあったジャイナ教の人のお話は、日常と人生の先にそれがスンと自然に置かれていました。
心配に呑まれそうになった時にも、自分で自分の肉体の経過を観察できるか。
死が近くなる前から漠然と老死の心配をする日常を生きるのか、そうでない日常を生きるのか。
"そうではない" ほうの事例を具体的に見せてくれました。