以下の内容はhttps://uchikoyoga.hatenablog.com/entry/Concerning-My-Daughterより取得しました。


娘について キム・ヘジン著 古川綾子(訳)

韓国の小説『菜食主義者』を読んで驚いて、また韓国作品を読みました。
この物語は家族観への自己内省がかなり進んだものに見えて、言葉が直球なのに意外な変化球もあって、グイグイきました。これも数日で読んでしまいました。

 

 

とても正直な主人公

60代の母親が30代の娘に対して思うことが綴られています。
この人は正直でちゃんと短気だし、ちゃんと自分の支配欲に向き合っている。しかも、先立った夫を都合よく美化したりしません。


ちょうど中間にある以下の描写がとても印象に残っています。

こういうことって一体、誰に相談するべきなんだろう。夫が生きていたら、並んで天井を見ながら横になって言葉を交わし、賢明で合理的な判断を下せていただろうか。いや、違う。心の弱かった夫は娘を殺してしまったかもしれない。最初から産まなかったみたいに。いっそのこと、最初から存在しなかったみたいに思うほうを選んでいただろう。

これはあくまで母(夫にとっては妻)の妄想であり、実は自分自身の欲望にも見えます。
「最初から産まれなかったみたいに」ではなく「産まなかったみたいに」という言葉に漏れる本心が読者に届く。
思い通りにならない子供なら、いっそのこと最初から産まなかったことにしたい。そんな親の正直な気持ちに、いちいちエクスキューズが入らない。
はっ。こんなことを思ってしまったわたし・・・(冷汗) なんて展開にならない文章に、読者もちょっとこれは正座をして読んだ方がよさそうな話か、となります。

 

いい親を演じること=わたしの精神が死ぬこと という心の事実を真っ正面から描いています。

 

 

描かれているジェネレーション・ギャップ

主人公の母親は、娘とそのパートナーに対してこんなことを思っています。

 この子たちは博学で洗練されたヤクザなのかもしれない。学校では拳の代わりに、拳より強力なものを使う方法を教わったのかもしれない。だから奪われたことにも、やられたことにも気がつかず、仕方ないと思ってしまう私みたいな被害者が生まれるのだろう。

ずっとシングルマザーでやってきて、子どもが巣立ったと思ったら何かがうまくいかなくて戻ってきた。
そんな状況で、この人はいい親を演じず、若い世代を “博学で洗練されたヤクザ” だと感じています。
その理由は少しずつ明かされていくのだけど、その明かし方が小出しにされているのがまたおもしろくて。
この小説はあらすじを読まずに読んだ方が、この母親はどんな信条を持った人なのだろうと、純粋にその人間性への興味で読み進められます。

 

 

老いに対する感覚

60代の女性が語る老いについての言葉の感覚も、また独特です。

 どうして心というものはいつも背伸びをして、恐怖がやってくるほうを向こうとするのだろう。
 同世代の中には、まるで二十代や三十代みたいに生きている人もいる。引き際を自分で決められる人たち。時間を味方につけられる人たち。その資格がある人たち。そうやって考えてみると、私は万事において年寄りくさすぎるのかもしれない。老いたという考えにがんじがらめにされて、できることとできないことを決めつけて、一つずつ可能性を摘み取って、平坦で味気ない日常にすることばかりに精を出していたのかもしれない。

ここの  ”引き際を自分で決められる人たち”  という表現が、日本語の表現と逆の意味に感じて、強く印象に残りました。
ここでは、"急いで空気を読んで引退せずに、好きなだけ居残れる人たち"、というニュアンスです。

日本の場合だと、引き際を自分で決められないことは、若作りを止められないオツムの弱いおばさんと見る感覚がある。

わたしにとって、引き際という言葉にはそういうニュアンスが強いので、この表現が新鮮に感じました。


この感覚で書かれた部分は仕事の描写にもありました。

今日では仕事という行為は損なわれ、汚されてしまった。ずっと昔、仕事は私たちの世代に自尊心と自負心を吹き込んでくれたのに、その役割を失って久しい。人間は仕事の主ではなく奴隷と化し、疎外されたり無視されたりすることを恐れ、常にびくびくしていなければならない。そしてついには仕事の外側へと追いやられ、追い出され、失敗を認めなければならない瞬間を迎える。

この小説はお仕事小説でもあります。
前半はよくある老いのぼやきにも見えるのだけど、ここで “追い出され、失敗を認めなければならない瞬間を迎える” と書くところが、頭の中で悲観的なストーリーを描く癖のある主人公らしさ。

 

わたしが30代の頃から「この流れは、年配の人にとってはきついだろうな」と感じてきたことが、年配の人からの視点で書かれていました。
そしてわたしも年配の人側に折り返してこの苦しみを経験するのかと思いきや、それとは別の形で、それよりももっと早く、AIに対する奴隷化を求められる新世界を見ています。

使いこなす、と言いながら奴隷化するの。

 

 

ニュースで見た映像が想起されたり、食文化を感じたり

物語の中で、群衆の中で携帯電話を落としてしまう場面がありました。
その様子の文章を目で追いながら、数年前に韓国でハロウィンの日に繁華街で群衆が将棋倒しになった事故を思い出して、あれくらいのギュウギュウさなのだろうと想像しながら読みました。
韓国へ行ったことがないので、今ひとつ道幅とか街のスケール感などが体感的に浮かんでこないのですが、この場面だけは皮膚感覚で想像できました。

 

別の韓国の小説『菜食主義者』もそうでしたが、食べ物のメニュー名やお茶がよく出てきて、日本にはないものだから印象に残るのかもしれないけれど、どんな食べ物を一緒に食べるか、どんなお茶を一緒に飲むかが、なんとなくその親密さや生活様式の表現のように見えます。

例えば日本だったら、何かを告白したそうな人がいて、その人と誰かがカツ丼を食べていたら、なにかを白状したことの暗喩として機能するとか、緑茶の濃さや紅茶の銘柄で生活レベルの差を感じるとか、そういうものがありそう。


   *   *   *


ここ数年で外国のいろんな小説が読めるようになってきました。
韓国の小説には不思議と長編がなく、中編ばかり。どれも言葉が強くて濃縮感があって、その濃縮エキスに儒教成分がめちゃくちゃいっぱい入ってる。
そこで善人ぶるけど仙人ぶらないところが好きです。短気な人間が善人ぶっております、ええ、悟ったりはしません。という精神構造を隠さないので、それが心地よい。

特徴を殺さない毒味と感じます。

 




以上の内容はhttps://uchikoyoga.hatenablog.com/entry/Concerning-My-Daughterより取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14