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挨拶を “あいさつ運動” にしたり、「あら、そうなの」を傾聴にしたりしない。なんでもないカルマの話

ヨガでも仏教でもスピリチュアルでもなんでも、「カルマ」という言葉を聞いてギョッとしたことはありませんか。

仏教で漢字いうと「業」(ごう)と訳されて、画数が中心にギュギュっと寄って、発音もおどろおどろしく、ちょっと怖い印象を受けませんか。

郷ひろみ」っていうと往年のスターに感じるけど、「ヒロミゴー」って言うといつまでも動けて明るくてかっこいい年長者のお手本って感じがする。わたしはこういう語感の意識を楽しむクセがあります。

 

ヨガの文脈で語られる場合は、カルマは行動・行為といった感じで、外部環境の影響も受けながら転がったり浮かんだり漂ったり停滞したりもする、そういうもの。

これは、わたしの理解の上での言語感覚です。

 

 

先日、東京で一緒にヨガをしている人にカルマについてこんな話をしたら、リストに「4」があるのがいい! というコメントがありました。

(以下はスライドを使って話した際のページです)

 

 

 

4つのカルマという視点

上記の分類は出典があります。

シュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカールさんのヨーガ・スートラの解説本にありました。

 

▼同じ内容をこちらで読むことができます

 

カルマには上記の4つのタイプがあると、ヨーガ・スートラのなかで「行為」「行為の結果」について説かれる第1章24節の説明にありました。

 

 

4が偶然1になることもある

メリットもデメリットももたらさないであろう行為が、タイミングや関係性によってありがたいことになった。そういう経験ってありませんか?

 

わたしは先日ありました。

久しぶりに会った学生時代からの友人に、ここ数年で対応したことの報告のあと「ややこしかったー。でもやっと終わった。こうしてまた以前のようにお茶ができてうれしい!」と話したら、友人が10年以上前に経験したことを話してくれました。

 

それは、友人が子供の頃の話でした。

40歳を過ぎてから、いまさら傷つくトシじゃないとされる年齢になってから当時の大人の事情を知って、置き場を定められずにいた感情です。

誰かを責めてどうこうなるものではないことについて(世の中そんなことばかり)、それぞれが事情を引き受けながら頑張ってきた。そういう話が、その日たまたまできたのでした。

 

 

4を1にした人の例

これは15年ほど前の、インド旅行中の思い出です。

一週間ほど毎日同じ道場で練習をしていたときに、近くにある書店員さんと何度か練習のあとに道で居合わせて、2キロくらい先にある市場までバイクに乗せてもらったことがありました。

こういう流れのナンパはよくあることなので、これ以上頻繁だと警戒したほうがよいのなと思っていました。

 

そんなことを思うようになってから、また乗せてもらえることがあったので、「今日は何の用事であっちまで行くのですか?」と尋ねたら、「あの先に住んでいる友人がいて、今日は日曜だから、ハローって言いに行くんだ」と言われました。

 

 

  すてきなのか、暇なのか。 

 

 

── それはわたしの頭の中での決めつけです。

「ハローって言いに行く」という用事を斬新と感じるくらい、当時のわたしはメリット ・デメリットに縛られる思考をしていました。

 

 

「あいさつ運動」は、いつまで “躾” として機能するか

小学校の頃に「あいさつ運動」って、ありませんでしたか。

30代の頃だったと思うのですが、当時勤めていた会社でそれをやろうと提案した人がいて、それに反発している人もいて、確かにこれは、大人になってから提案されると「そんなことまで運動にするのか」という気になるよな・・・、と思っていました。

 

 

  行為の結果をコントロールしようとしすぎではないか

 

 

「まるで軍隊」「小学校じゃないんだから」と、批難のしようは後付けでいくつも思いつきました。と同時に、"それらしい反論はいくらでも後付けできる" ことそのものが、ずっと気になっていました。

 

 

先日読んだ高峰秀子さんの本に収録されていた『ひとこと多い』というエッセイに、こんなくだりがありました。

 

 大人には「大人」という名称があり、子供には「子供」という名称がある。

 私は昔から、子供は大人の小型だとおもっている。

 

この視点を借りると、大人の組織での「あいさつ運動」は、小型のうちにインストールしておくべきアプリがうまく入っていなかった人と、アプリは入れたのだけど固まりやすい人が混在しているから、ここいらで一度、みんなで同時にインストールしましょう。という声がけと捉えれば合理的です。

理想的ではないけれど合理性はある、ということは、社会生活の中に多く存在しています。

 

 

「傾聴」は大人になってからインストールするアプリらしいけど

わたしは “寄り添い” とか ”傾聴” という言葉にも、あいさつ運動に似たものを感じます。

表面上の気づかいを少しずつ溶解させることで生まれる「こんなことがあってね」からの会話は、わざわざ傾聴なんてテクニックくさい言葉を当てはめたくない、もっと偶発的なものです。

 

ドンと置いてある石の塊をあっちからこっちから削っていったら、継ぎ目のところで意識が出会って丸く繋がったというような、自然的な芸術。

その芸術のカラクリがどこにあるかといったら、4種のカルマの4が1になるときに起こるんじゃないか。

そんなふうに思っています。

 

 

  *   *   *

 

 

win-win したくて、 win が大きいほどうれしいはずだと思った自分を振り返ってみる。

なんでもない行動・行為を、「なんにもならないならやらない」という条件付けの元に置くことが苦しみのはじまり。── ってなことが書いてあるのが、ヨーガの教典の教えで、ヨガの教えはとても日常的で、どこかお茶目で明るいものです。

 

 

  んなんでもないような ことが

  しあわせだったとおも~う♪

 

 

と歌っていた虎舞竜と言ってることは似てるんだけど、ヨガは過去形でなくて現在形です。

虎舞竜がわからない人はググってください。

ヤングを置き去りにしてごめんなさいね。




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