
これは、何年もヨガの練習をしている人に、たいへん沁みる小説です。
これまで読んだ夏目漱石作品の中で最強のフィジカル描写が展開された「苦行もの」の作品。
都会のお坊っちゃんが坑夫に転職する話で、きっつい山の中に入ります。とくに心身の変化の描写はたいへん緻密で、「これ、ヨーガ・スートラ第四章にあったよな…」と思うものばかり。たいへん驚きました。
そこに、漱石グルジはユーモアを織り込んできます。ものすごい筆力です。
ユーモアのある描写でわたしが好きなのは、川の流れを江戸っ子にたとえるところ。
こういうところは、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」に似た痛快さ。
心や思想に芯のない状態を「蒟蒻」と言うのは猫でも登場した喩えだけど、この小説では「蒟蒻のように疲れ切った身体」という、フィジカル描写で登場します。そして、疲れても死ねばいいやと投げやりな気分になる身体と魂の離れ際を「いくら身体に泊る必要があっても、身体の方から魂へ宛てて宿泊の件を請求していなかった。」と、身体疲労優勢の立場で描く。すごい作品です。
「死にたいはずなのに、おなかが減る」「もう自分は落ちぶれた人間のはずなのに、差別感情が止まらない」この連続で進んでいく物語の中に、心身の変化が細かくいちいち描写される。この「いちいち」が、いちいち沁みます。
さくっと出てくる「まず凡人は死ぬ代りに睡眠で間に合せて置く方が軽便である。」とか。
もう読みたくなったでしょ。この先は、本を読んでからにしたほうがいいかも。本を読んでからにする人は、ここで画面をそっと閉じてくださいね。
続けます。先に身体部門から。
そのうち路がだんだん登りになる。川はいつしか遠くなる。呼息が切れる。凸凹はますます烈しくなる。耳ががあんと鳴って来た。これが駆落ちでなくって、遠足なら、よほど前から、何とか文句をならべるんだが、根が自殺の仕損ないから起った自滅の第一着なんだから、苦しくっても、辛くっても、誰に難題を持ち掛ける訳にも行かない。相手は誰だと云えば、自分よりほかに誰もいやしない。よしいたって、こだわるだけの勇気はない。その上先方は相手になってくれないほど平気である。すたすた歩いて行く。口さえ利かない。まるで取附端(とっつきは)がない。やむを得ず呼吸を切らして、耳をがあんと鳴らして、黙って後から神妙(しんびょう)に尾いて行く。神妙と云う字は子供の時から覚えていたんだが、神妙の意味を悟ったのはこの時が始めてである。もっともこれが悟り始めの悟りじまいだと笑い話にもなるが、一度悟り出したら、その悟りがだいぶ長い事続いて、ついに鉱山の中で絶高頂に達してしまった。神妙の極に達すると、出るべき涙さえ遠慮して出ないようになる。涙がこぼれるほどだと譬えに云うが、涙が出るくらいなら安心なものだ。涙が出るうちは笑う事も出来るにきまってる。
山へ深く入っていく場面です。
この小説では、時代的にそういう日本語だったのかもしれないけれど、いまでいう「しんみょう」に「しんびょう」というルビがふられています。
身体的に追い詰められたとき、湧いてくる生きたさのような、生命力の火。それがチラチラする感じが細かい刻みであるような。
そういう感じがビシビシきて、うわぁぁぁ、と思いました。
そして、安心したときには饒舌にもなるという描写も、まるで自分の脳内を再生しているかのように寄り添ってきます。
自分の言いたい事が何の苦もなく口を出るに連れて――ある人はある場合に、自分の言いたくない事までも調子づいてべらべら饒舌(しゃべ)る。舌はかほどに器械的なものである。――この器械が使用の結果加速度の効力を得るに連れて、自分はだんだん大胆になって来た。
舌はかほどに器械的。って。おしゃれでじょうずなこの感じ、たまらん。
次は精神部門です。
自分はこう云う場合にたびたび出逢ってから、しまいには自分で一つの理論を立てた。――病気に潜伏期があるごとく、吾々の思想や、感情にも潜伏期がある。この潜伏期の間には自分でその思想を有(も)ちながら、その感情に制せられながら、ちっとも自覚しない。またこの思想や感情が外界の因縁で意識の表面へ出て来る機会がないと、生涯その思想や感情の支配を受けながら、自分はけっしてそんな影響を蒙ぶった覚えがないと主張する。
夏目漱石の小説には「その心の種はあった。それが発芽したかしなかったか、いつ発芽したかの違いだけ」という、インド哲学的な視点がよくみられるのだけど、ここはググッとせまってくるダイレクトな表現です。
以下は、ちょっとおもしろいところ。
この小説の主人公は、派手な女と地味な女の板ばさみがつらくて、都会を飛び出してきています。
その主人公が、身体がしんどくてここで梯子から手を離したら転落して死ぬのかな、と自分で思う場面の心理描写がこのように綴られています。
こう云う時は、魂の段取が平生と違うから、自分で自分の本能に支配されながら、まるで自覚しないものだ。気をつけべき事と思う。この例なども、解釈のしようでは、神が助けてくれたともなる。自分の影身につき添っている――まあ恋人が多いようだが――そう云う人々の魂が救ったんだともなる。年の若い割に、自分がこの声を艶子さんとも澄江さんとも解釈しなかったのは、己惚の強い割には感心である。自分は生れつきそれほど詩的でなかったんだろう。
自身が窮地に陥っても「とはいえ俺、モテてたし」って思わない自分自身を褒めている。
こんなキャラクター設定ってありますか今どき。
次は、社会・人間関係部門です。やはり夏目漱石小説で沁みるのは、この部門。
この小説には、こんな脳内セリフが出てきます。
社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃さない。
これですよ!
で、この主人公は、断罪する側ではなく、される側。なんだけど、そこまで悪いことをしたわけでもなさそうなので、なんとなく「門」の宗助さんのようでもある。
本当の事を云うと性格なんて纏(まと)まったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずるくらい纏まらない物体だ。しかし自分だけがどうあっても纏まらなく出来上ってるから、他人も自分同様締まりのない人間に違ないと早合点をしているのかも知れない。それでは失礼に当る。
こういう謙虚さの描写が、いいバランスなんだよなぁ。
いったい人間は、自分を四角張った不変体のように思い込み過ぎて困るように思う。周囲の状況なんて事を眼中に置かないで、平押しに他人を圧しつけたがる事がだいぶんある。他人なら理窟も立つが、自分で自分をきゅきゅ云う目に逢わせて嬉しがってるのは聞えないようだ。
「自身を縛る自身」も内観する。
転職の面接のような場面での以下の人物描写も、まるでサットヴァぶりっ子をするヨギーのよう。
「僕はそんなに儲けなくっても、いいです。しかし働く事は働くです。神聖な労働なら何でもやるです」
どてらの頬の辺あたりには、はてなと云う景色がちょっと見えたが、やがて、かの弓形の皺を左右に開いて、脂だらけの歯を遠慮なく剥き出して、そうして一種特別な笑い方をした。
(中略:この間の葛藤が読みどころ)
一種特別な笑い方をしたどてらは、その笑いの収まりかけに、
「お前さん、全体今まで働いた事があんなさるのかね」
と少し真面目な調子で聞いた。
死んじゃおうかなみたいな感じで山にまで来て、神聖とか言う意識高い系(笑)。
それに対する冷静な面接の場面です。
ここで「どてら」と書かれている人はのちに名前がわかる長蔵さんで、この長蔵さんのことを、のちに主人公は
その当時自分にこれだけの長蔵観があったらだいぶ面白かったろうが、何しろ魂に逃げだされ損なっている最中だったから、なかなかそんな余裕は出て来なかった。
と回想します。
主人公の心の成長が、こんなふうに回想で描かれます。長蔵観というのは、ギーターでクリシュナが説く「自分の義務を果たす」という働きかた。
手元にヨーガ・スートラやバガヴァッド・ギーターがあるなら、この小説を読んだあとに、開いてみると「おぉ」と思うところが多いかと思います。
終盤にわかりやすいメンターのような人も出てくるけど、やはり読みどころは前半の「長蔵観」のほう。
これは、ヨガの練習をしながら哲学も学んでいる人に、たいへんおすすめです。
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