「時間の長さ」という幻想
わたしたちの人生観は物理学的な時間・量的な時間・時計的/カレンダー的な時間に支配されている。「いま現在」を起点として開かれる時間感覚は、数直線上のある点を「現在」、その左側は過去、右側は未来になる。このような「時間の空間化」こそが物理学的時間の特徴である。
「わたしの人生」がハードディスクにすべて記録されているなら「人生の長さ」をそのまま数量化した時間として保存することができるだろう。だが、わたしたちの人生はそのようにはなっていない。想起できる思い出(記憶)の数はつねに限られており、それは「物語」という文脈でしか意味をなさない。もし、本当に毎日がハードディスクに記録されているとしても、そのほとんどは中身のない日々の連続だろう。ゆえに、人生の物語的全体性はそのような物理的・数量的な時間感覚には対応していないのである。
「長寿」や「長生き」という概念が魅力的な価値になるには、物理学的・数量的時間感覚が必要になる。たとえば、20歳で死んだひとがいたら「まだ若いのにかわいそう」と思ったりするひとがいるかもしれないが、そんなことはない。たとえ長生きしたところで、その人生の中身が記憶に残らないほどの単調な毎日だったら、100年生きようが1000年生きようがまったく何の違いもないだろう。その違いを生むのは物理学的な時間の長さ(長生きしたかどうか)ではなく、人生の物語/意味的な内容の濃密さである。人生の物語的な意味の強度は物理的な時間の長さには還元されず、意味をなすような物語の濃密さ(想起される出来事=思い出)によって決まるのである。
この考え方の対極にあるのは「タイムイズマネー」である。時間を空間化して時間を数量的なものに変換し、この客観的時間の長さとカネをイコールで結ぶ。このように、資本の論理は人生の物語的意味ではなく、物理的な時間の長さを価値化しているのである。わたしたちは、人生の実存的な深部(時間感覚)までが資本化されている可能性があるのだ。
「自由死」という生き方
死ぬタイミング(死にどき)を自分の人生のある時点に設定し、それに準じて生きること(=死ぬこと)。このような生き方( =死にかた)を「自死」や「尊厳死/安楽死」と区別して「自由死」とよびたい。
「自由死」という言葉はジャン・アメリー著『自らに手をくだし: 自死について』(法政大学出版局 1987年)から拝借し、このような生き方を提唱している本としては須原一秀 著『自死という生き方 覚悟して逝った哲学者』(双葉社 2008年)がある。
具体的な「自由死」とは以下のような感じである。
〈自分は40歳まで生きたら死のうと決めていた。わたしの生きた40年間はとても充実しており、思い残すことは何もない。悔いや未練もまったくない。だから、もうこのへんで自分の人生を終了したい〉。
すべての人間はいつか必ず死ぬわけだが、自分が生きる期限をみずから設定し、40歳なら40歳のタイミングで人生を終わらせる。わたしはこういう生き方があってもいいと思っている。逆に、生まれたからには限界ギリギリ(自然死?)まで生きなければならないという変な義務感に疑問を持っている。また、「長生き」とか「長寿」というのが幸福の証であるかのような価値観にも反対である。
なぜ、人間はいつか必ず死ぬと知っているのに死ぬタイミングを自分で決めずに病死になるまで生きようとするのだろうか? 合理的に考えたら、最大幸福の直後に死ぬのが一番よい人生になると思えるのだが、どうして人間は不幸が最大化するような「高齢期」までわざわざ生を延長するのだろう。
死が怖いからなのか、自死するのが怖いからなのか…。ならば、安楽に死ねる薬が目の前にあったなら、最大幸福の直後にその薬をのんで死を選ぶのだろうか? つまり、人生が苦なのに死なずに生きているのは死ぬのが怖いからなのか? 死にかたに恐怖を感じているからなのか?
死にかたとしての病死も、自死同様に(あるいは自死以上に)苦痛を伴う可能性が十分ありうる。当然、病死はどのような病気に罹患するかによってその死にかたが変わってくる。それだけではなく、お金や医者や病院や家族によって、医療の質も異なってくるだろう。お金のないひとは十分な緩和医療や延命治療ができず、医者や病院が悪い場合は適切な医療が受けられず、家族がいない場合(あるいはダメな家族だったりしたら)なおさら医者や病院への仲介が弱まって適切な医療が期待できない。病死はそのほとんどが病院死であるが、病院死が死にかたとして自死より苦痛が少ないかというと、その限りではない。精神的・肉体的苦痛の観点からいえば、その二つに優劣をつけるはできない。一例をあげるなら、世界的な音楽家だった坂本龍一氏の終末期があげられる。これだけ有名で地位も名誉もあり、お金も家族にも恵まれている彼は亡くなる1〜2日前に次のように言ったという。
特にここ半年は凄絶な闘病だった。亡くなる1、2日前には家族や医師に「つらい。もう、逝かせてくれ」と頼み込むほど。関係者は「弱音を吐かなかった彼がそんなことを言うとは…。よほど苦しかったのだろう」と思いやった。
ならば、ある程度元気なうちに、自分の人生の最大幸福のポイントで、自分で死を選ぶほうがよいのではないだろうか? このエビデンス的確実性を覆すような批判は宗教や儒教的道徳以外にないように思える。もちろん、自分が養う家族や子供がいるひとは、自死の選択のハードルは高まるであろう。その点、単身者や家族がいないひとは自由死の選択はそのぶん容易になるだろう。
「長生き=幸福」という価値観は同時に「短命=不幸」という価値観を生みだしているが、「100年生きたひとは幸福である」という発想はあまりにも単純だと思う。また、自死したひとは可哀想なひとで「自死=悲惨な死にかた」という発想もこれまた単純すぎる決めつけだ。「悲惨な病死」というのもあるのに長寿で病死すると「天寿を全うした」みたいな言い方がなされ、理想的な死にかたとして肯定される。なぜ、生まれたからには病死するまで生きるべきなのだろうか。
病と闘っているひとや長生きしたいと思っているひとを否定したいわけではない。ただ「未練なき自死(=自(由)死)」という死にかたも生き方としてあってもいいのではないかと提案したいだけなのだ。むろん、人生に未練があるのに自死を余儀なくされるケースは「自由死」ではないから、そういう自死はできるだけ減るようにしなければならないだろう。
もし、自由死という生き方が肯定され尊重されるようになれば、自死にたいする悪いイメージを書き換えることもできる。世間的には、自死は「まだ生きられたはずの人生を中途半端に終わらせる身勝手な死にかた」だと思われている。それに加えて「かわいそう」「無惨」「迷惑」な死にかたのように決めつけられ、ネガティヴでタブーなイメージが強い。病死も事故死も災害死も「かわいそう」で「無惨」で「迷惑」な死にかたになりうるし、そもそも他者に迷惑をいっさいかけずに死ぬことなんて不可能なはずである。ではなぜ、ことさら自死者だけが死してなおスティグマ化されてしまうのか。こういうイメージは早くなくなったほうがいい。
「自由死」は、生まれたからには長生きしなければならない──という謎の信仰から自由になるための生きかたである。自死者を「かわいそうなひと」とスティグマ化することは、逆に自由な人生の可能性を限定=否定することになる。