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「生き方」としての読書──読書と労働の両立可能性を考える

 三宅香帆 著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書,2024年)を読んだので、以下でその要約と異論を述べたいと思う。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)

 

 簡単に要約すると、働いていると本が読めなくなるのは、日本の雇用システムがいまだに長時間労働(全身全霊で働く社会)だからであり、「労働」に過剰な意味を付与する勤労主義がそのシステムを道徳的に支えているからである。だから、人生における「労働」の負荷を分散させ「人生=労働」(仕事で自己実現!)という価値観を破壊し、労働時間を短縮して「半身で働ける社会」を実現すれば「労働」と「読書(=文化)」は両立可能になる──。

 概ねこのような結論だった。

 

「働きながら本を読める社会」へ

 これはまさに生存権の問題、つまり「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利(憲法25条)にかかってくる重要な問題である(著者は「文化」の代表として「読書」を選択して論じている)。

 本書では、ゲーム(パズドラ)やギャンブル、自己啓発書やネットの動画視聴などは「労働と両立可能な(文化的)営み」として位置づけられているが、著者が本書で試みるのは「労働」と両立不可能になっている──「労働」のノイズとなる──「文化的営み(=読書)」を「労働」から救い出すことにある。

 

パズドラはできるのに読書することはできない

 本書では映画『花束みたいな恋をした』(2021年)のあるシーンが何度も紹介されている。この映画の主人公は学生時代には趣味の小説やマンガをたくさん享受していたのだが、働きはじめると会社の仕事が忙しくなり暇な時間はゲームの「パズドラ」しかやる気がしない……というシーンである。(24頁)

 ここから著者は「なぜ主人公はパズドラはできるのに読書することはできないのか?」という問いを立ち上げる。単純に「学生時代よりも自由時間が減ったから…」と考えそうだが、著者が問題にしているのは自由時間の量ではなく「パズドラする時間があるにもかかわらず、どうしてその時間を読書にあてることができなくなるのか」という点にある。
 

「情報」と「知識」の差異

 映画の主人公はパズドラをやりながらも自己啓発書だけは読んでいた。「労働」と自己啓発書はパズドラ同様、両立可能なのである。ここから著者は「情報」(=自己啓発書)と「知識」(=人文書や文芸書)を以下のように区別する。

・「情報」とは「自分の知りたいこと」

・「知識」とは「自分の知りたいこと+ノイズ」

 ここでいう「ノイズ」とは、自分にとってアンコントローラブルなもの、あるいは今の自分にとって直接関係のない余計なもの、雑音である。この「ノイズ」という言葉が本書の重要なキー概念になっている。

 自己啓発書はそのようなノイズが除去された「情報」が書かれた本であるため、映画の主人公は「労働」しながらも自己啓発書は読めたわけである。

 就職活動や転職活動、あるいは不安定な雇用のなかで成果を出すこと。どんどん周囲の人間が変わっていくなかで人間関係を円滑に保つこと。それらすべてが、経済の波に乗り市場に適合すること──現代の労働に求められる姿勢である。

 適合するためには、どうすればいいか。適合に必要のない、ノイズをなくすことである。[……]

 だとすれば、ノイズの除去を促す自己啓発書に対し、文芸書や人文書といった社会や感情について語る書籍はむしろ、人々にノイズを提示する作用を持っている。(182頁)

 

「労働」と「読書」がなぜ両立不可能になってしまうのか? 著者が出した結論は《本を読むことは、働くことの、ノイズになる》からである。(182頁)

 

読書とは「他者の文脈を知ること」

 著者は「読書」と「情報」の差異をつぎのようにまとめる。(223頁)

・読書──ノイズ込みの知を得る

・情報──ノイズ抜きの知を得る

 そして、「ノイズ」とは自分の人生以外の「他者の人生の文脈」のことでもあり、人生には自分以外の「他者の人生の文脈」も必要であると述べる。(230頁)

 今の自分には関係のない、ノイズに、世界は溢れている。 

 その気になれば、入り口は何であれ、今の自分にはノイズになってしまうような──他者の文脈に触れることは、生きていればいくらでもあるのだ。

 大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

 仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。

 仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
 それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。(231-2頁)

 

自己啓発書はなぜ読まれるのか

 以上が大まかな概略だが、本書の中核をしめるのは「読書と労働の歴史」である。「読書」が「労働」のノイズになったのはいつ頃からだったのか。その画期となったのは1990年代以降、〈政治の時代〉から〈経済の時代〉への移行にあったというのが著者の分析である。1990年代以降、つまりバブル崩壊後、《仕事を頑張っても、日本は成長しないし、社会は変わらない》という実感が大勢を占める時代が到来する。ここから「社会は変わりうる(=政治の時代)」から「社会は変わらないから自分を変えよう」というネオリベ的な〈経済の時代〉がやってくる。(174頁)

 そして、ノイズを除去した自己啓発書が売れる時代となった。

 世界は、私たちは、脳は、会社は、そういうふうにできている。だから仕組みを知って、行動し、コントロールできるものをコントロールしていくしかない。

「そういうふうにできている」ものを変えることはできない。だからこそ、波の乗り方──つまり〈行動〉を変えるしかない。

 そのような環境が、ポジティブ思考という〈行動〉で自分を変える自己啓発書『脳内革命』のベストセラーを生み出したのだ。(175頁)

 

「生き方」としての読書

 ここで紹介したいのが『ハッピークラシー「幸せ」願望に支配される日常』(みすず書房,2022年)という本である。

 この本では、「ポジティブ心理学」と新自由主義の特徴(セルフヘルプ・自己責任)がいかに親和的かを批判しており、ここから「生きづらい社会をいかに生き延びるか」(=サバイバリズム)という傾向が自己啓発的傾向に陥っていくことに警鐘をならしている。

 社会が生きづらくなればなるほど自己閉塞的にサバイバリズム(=生き延びること)に執着していく傾向にあり、生きづらい社会をサバイブするために、社会を変えるのではなく自分を変えること(=自己啓発的サバイバリズム)が「ポジティブ心理学」によって誘引されるようになる。

 ここからわたしがまっさきに想像したひとは、作家の橘玲だ。

『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(幻冬舎,2010年)、『言ってはいけない—残酷すぎる真実』(新潮新書,2016年)、『無理ゲー社会』(小学館新書,2021年)、『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』(講談社現代新書,2021年)などを上梓している支持者の多い人気作家である。

 このひとが主張していることはタイトルから見てもわかるとおり、非常にシンプルである。日本社会はもはや「無理ゲー社会」であり、何をやろうが変わらない。選挙をしてもデモをしても変わらない。ならば、そのような「無理ゲー社会」を個人的に賢くサバイブしよう! 自分の身は自分で守るしかない! まさにセルフヘルプの思想である。

 つまり、いまの日本社会が「無理ゲー社会」である以上、自己のホメオスタシス(幸福状態)を最適に安定キープしながらサバイブするためには、自己の実存も他者の人生の文脈も同時にノイズにならざるをえない。

 たとえばダニエル・ネリングらは、近年サバイバリズムがどの程度自己啓発書の主要なテーマになっているかを徹底分析した。著者らによれば、サバイバリストの自己啓発書がサバイバリズムや冒険や助言の裏で提示するのは、個人的な充足へのこだわり、内省、そして「ただやりすごしたり、生き残ったり、社会的圧力から完全に抜け出したりする(楽な)作戦」という条件つきで夢を追求することを組み合わせた個人主義的なビジョンだ。(『ハッピークラシー』原注 p16)

 

 したがって「無理ゲー社会」にあって本書の主張《大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ[……]》というのは、かなり倫理的な意味合いが濃いのである。

 本書では「読書」を趣味の一部であるかのように書いているのだが、著者の結論部分を受けいれるかぎり「ノイズ込みの読書」は趣味の域を超えて「生き方」そのものが問われていることになる。著者はある価値観を暗に打ち出しているのだ。自己のホメオスタシスに執着しないような生き方(=ノイズ込みの読書)を倫理的に推奨しているのである。

 

「ノイズ抜きの読書」も可能である

 これも本書にたいする異論になるのだが、わたしが知っている読書ブロガーは人文書や社会問題にかんする本をノイズ抜きの「情報」として摂取し、その都度ブログに感想文を書いている。「ノイズ抜きの読書」は可能なのだ。

 こういうひとは日本の社会問題を「一般教養を身につける」みたいに捉えて本を読んでおり、いま日本ではどのようなニュースがトレンドなのか、その傾向をつかみ平積みなっているような本をチョイスして社会問題をたんなる「情報」として収集することがそのブロガーの読書の目的になっている。

 なぜその社会問題にコミットしているのか、なぜその社会問題を「問題」と思っているのか、その社会問題で苦しんでいるひとたちは自分とどのように関係しているのか……。そういった実存的な関係性(=ノイズ)はキャンセルされている。

「わたし」が社会問題に関心があるのは、その社会問題と「わたしの生きづらさ」が関係しているからだ。「わたしの生きづらさ」とその社会問題の構造が関係していると思うからである。しかし、そのブロガーには実存的な生きづらさがまったく感じられず、あたかも受験小論文のような文章が書いてあるだけだった。社会問題にかんする本を読むことは「一般教養を身につける」ことであり、そのような知識(=情報)を持っていることが周囲からの「このひとは頭がいい」みたいな評価につながるかぎりでのスノッブ的な読書感想文を書いているだけなのである。

 いっけん同じ社会問題に関心があるようでまったくそうではない現象。ある社会問題についての知識は持っているが、その社会問題によって苦しんでいるひとたちにはまったく興味のないひとたち。そういうひとたちは「模範解答」は持っているが自分の価値観にもとづいた意見は持っていない。「世の中ではこういうふうなニュースが問題になっていて、その問題には次のような解答をするのがよい」というチャート式な受験解答パターンを知っていたいだけのひとたち──。

 そのような読書の仕方もノイズをキャンセルしている。自己の実存と他者の人生の文脈を関連づけないかぎり、どんな本を読んだところでそれはノイズ抜きの「情報」にしかならないだろう。

 

「全身社会」から「半身社会」へ

 本書は 「どうしたら読書と労働は両立可能になるのか」という問いを立ち上げ、「読書」と「労働」の関係を歴史的に辿ったうえで「全身全霊で働く社会」から「半身で働ける社会」への改革を訴えている。具体的には、週5日労働から週3日労働への移行。ワークシェアリングをして労働時間を短縮し、文化的な時間を過ごせるだけの余裕を持てる社会を実現する。そうすれば「読書」と「労働」は両立可能になる。

 大賛成だが絶望的に不可能なビジョンだ。社会はそんな簡単に変化しない。わたしが生きているうちにそんな理想的な社会はこないだろう。だとしたら、残された道はひとつしかない。自己のホメオスタシスに流されないような生き方を「労働」に抗いつつ倫理的に「あえて」選択するのである。

 大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。
 仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。
 仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。
 それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。(232頁)

 




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