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不可避のルッキズム──なぜ「恋愛現象」は衰退したのか

 ヒトが直立二足歩行をするようになった結果、感覚器官のシフト(嗅覚中心から視覚中心へ)が起こった──これは精神分析を創始したフロイトが注目した仮説である。これは進化論にもとづくもので、四足歩行のときは顔が地面に近いから視覚より嗅覚のほうが有利だったが、直立二足歩行になり顔が地面から離れたことによって今度は嗅覚よりも視覚が有利になった──。ここでフロイトが強調したかったことは、ヒトの認識システムが視覚中心になると同時に、四足歩行では見えづらかったヒトの性器が直立二足歩行によって見えやすくなったというところにある。ここから「生は性である」というフロイトの自説がはじまる。

 

 もうひとつ、ヒトは直立二足歩行によって自由になった手で「道具」を発明するようになる。この「道具=テクノロジー」の発達はヒトの視覚能力を飛躍的に拡張していくことになった。テクノロジーとしてのメディアは、人間身体の感覚器官を拡張するデバイスとしての機能をもつ(マクルーハン)。たとえば、写真やテレビがなかった時代、ヒトの容姿を認識するには実際に直接会う以外に方法はなかった。ヒトがヒトに直接出会える人数にも限りがあっただろう。したがって、メディアが発達する以前にも「若い=美しい」「老い=醜い」のような美醜の価値観はあったと思われるが、一般的に「どういう容姿が美しいか」という容姿の価値基準(モノサシ)の共有化じたいが存在していなかった。

 しかし、メディアの発達がヒトの視覚デバイスを拡張し、それによって容姿の価値基準の大規模な共有化が可能になった(特にネット社会化以降)。ここにきて、社会が猛烈にルッキズム化しているのは故なきことではないのだ。おそらく、このルッキズム化の流れにたいして個人的に抵抗することは可能だろうが、ヒトの視覚優位の認識システムとそれを大幅に拡張するメディアテクノロジーがあるかぎり社会のルッキズム化は不可避/不可逆だろうと思う。

 

 まずは、ルッキズムの問題性はその観点から考える必要がある。「ひとを見た目で判断してはいけない」「ルッキズムは差別である」といくら言ったところで、ひとを見た目で判断している現実を変えることはできない。

 何をするにしても、なにかにつけて見た目の評価が大きなファクターとなってしまうのがルッキズム社会の特徴だ。たとえば、「若者ホームレス」を特集したドキュメンタリー番組でも、この動画が転載されたサイトでは「このひと(若く見える男性)ってイケメンだよね」というコメントがついたりする。社会問題の文脈とはなんの関係もないホームレス男性の容姿が評価される現象。これがルッキズム社会の特徴である。

 

 

 いつからか「モテる」という言い方があたりまえのように使用されるようになったが、これも社会のルッキズム化と無縁ではない。モテとか非モテという言葉は恋愛の文脈で使用されることが多いが、歴史的にはモテと恋愛はまったくちがう概念である。「モテる」という概念は不特定多数(インパーソナル)からの評価(主に容姿の評価)であり、恋愛はパーソナルな愛情の領域に属する。昨今ではルッキズムは前者の評価(アテンション・エコノミー)に属する。

 好き嫌いの問題は「評価」の問題ではない。たとえ世間から低評価されていることでも好きになることはありうるし、世間から高評価されていることでも嫌いになることは往々にしてありうる。歌がうまいアーティストを「歌がうまい」という理由から好きになることもありうるが、歌がうまくなくても好きになることは往々にしてある。歴代の有名なミュージシャンの歌のうまさを評価してもほとんど意味がないのは「好き」と「うまさ」が本質的に無関連だからである。歌のうまさよりも、もっとちがう固有の領域に魅せられるからこそ「好き」になったりする。「好き」が世間的な「評価」(上手か下手か、売れているかいないか等々)に還元されないからこそ、固有の領域(=好き嫌い)が存在するのである。

 

 もともと文化的に「恋愛」という現象が生まれた時代には、恋愛関係は第三者からすれば「あばたも靨」とか「蓼食う虫も好き好き」と感じてしまうのが恋愛という文化の特徴だった。これが「対幻想」としての恋愛の本質であると思われていた。これは昨今の「モテ」言説とはまったくちがう現象である。真逆といってもいい。しかし、ある時期からモテと恋愛がイコールのように語られるようになる。モテるから恋愛ができる、モテないから恋愛できない、恋人がいるひとはモテる、恋人ができないひとはモテない…等々。これは、イケメンはモテる、かわいい子はモテる、美人はモテる…という言説と同じである。つまり、社会のルッキズム化とモテ言説はパラレルな現象なのだ。

 

 個性は評価を超越する── それが恋愛の本質だった。インパーソナルな評価や承認はパーソナルな愛には還元されない。むしろ、世間的な評価から逸脱するように見える関係が恋愛だった。評価とはまったく次元のちがう親密なパーソナルな関係の領域がかつてはあったのである。しかし、パーソナルな愛情の領域がインパーソナルな評価によって侵食されてしまった(マッチングアプリ!)。今ではほぼ完全に領土化されてしまっている。これがルッキズム化の最大の問題だろう。

 容姿はひとそれぞれちがっている。この差異性や固有性を「こういう容姿は評価される」というタイプ属性(評価)に還元し、「モテる」というインパーソナルな評価によって人びとを価値評価する。恋愛はそもそもそういう営みとはまったくちがっていたのだが、いつしか「あばたも靨」はたんに「不細工」という評価になり「蓼食う虫も好き好き」はありえないことになった。今では恋人をつくるときに最大限に重視することは自分の恋人が友達からどう思われるかである。友達(第三者)から見たときの恋人の容姿の評価が高いか低いかが問題なのだ。

 

 以上が恋愛文化が衰退している元凶である。極端にいうなら、かつての恋愛という文化は昨今のルッキズム的なインパーソナルな評価に抗うような逸脱的な行為だったのである。これがメディアテクノロジーの著しい急速な進化によって、人間の感受性が「愛よりも評価」に傾くように「転向」されてしまった──。ここから恋愛における「モテ/非モテ」の過剰な自意識が惹起され「不細工=非モテ=恋愛できない」という「非モテ意識」を醸成する土壌を生みだしているのである。

 わたしの友達に、韓国アイドルの熱烈な追っかけ(推し活)をしていた女性がいた。この女性は数年前に結婚したのだが、その結婚相手は韓国の男性アイドルとは似ても似つかぬ男性であった。評価と愛はちがう……。このことをまざまざと見せつけられる披露宴だった。彼女は結婚しても韓国アイドルの推し活は続けるのかもしれない。だが、それは愛と評価の区別をしっかりと選別しているからできるのだろう。この区別ができるかどうかがルッキズム社会の恋愛の問題となる。

 

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