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「自分の事ばかりで情けなくなるよ」──のうのうと暮らしている罪

 井上陽水が作詞・作曲した『傘がない』(1972年)という曲がある。詞曲を意訳するなら「どこかで誰かが人知れず死んでしまうことよりも、いま雨が降っていて傘がないことのほうが問題だ」という暗い歌だ。

 《「傘がない」のリリースは、学生運動の勢いが下り坂になったあとに訪れた「シラケの季節」に丁度突入していたため、社会的問題に向き合わないミーイズム…の登場とも言われた…。》(Wikipediaより引用)。しいていうなら、「反戦平和」の象徴になったジョン・レノンイマジン』(1971年)を皮肉ったような曲である。

 

 わたしは『イマジン』の精神も重要だと思っているが、リアリズムを選ぶなら井上陽水『傘がない』のほうに分があるとおもっている。

 想像でも過去の経験でもいいが、「歯痛」の痛みを思いだしてみてほしい。 どう考えても歯痛なんかよりも、パレスチナウクライナ戦争のほうが大きな問題であるが、 いざ自分が歯痛になるとそんな大きな問題よりも「いま自分が感じている痛み」のほうが重大な問題になってしまう。 外的視点で見ると「わたしの歯の痛み」なんて他のあらゆる大事件に比べれば圧倒的にどうでもいいことである。しかし、内的視点に移ると「わたしの歯の痛み」は卑小であるにもかかわらず重大事件になってしまう。これは〈人間の自己中心性と自己保存の軛〉にもとづく自己の限界である。赤の他人の不幸よりも自分の不幸のほうが常に優位となる。この軛から自由な人間(あるいは個体生物)はいないであろう。

 哲学者で反核運動家だったギュンター・アンダースはつぎのように述べている。

 … 爆撃機の飛行士が証明している。帰還後インタビュアーから、飛行中に何を考えていたかと聞かれて、皮肉で言ったのか無邪気に言ったのかは別として、彼は「まだ支払っていない家の冷蔵庫の代金175ドルのことがどうしても頭から離れませんでした」と答えた。──現代では、行為と良心とがこれほどに引き裂かれ、それぞれの対象も全然別ものになっているのである。──  (『時代おくれの人間』上巻 P.281)

 

 第二次世界大戦で都市を爆撃していた飛行士はその最中「冷蔵庫の代金175ドル」のことを考えていた。このような実際の大量殺戮とその行為者の実感的「落差」をアンダースは問題視している。アンダースがいうには、人間の倫理的想像力の及ぶ範囲はせいぜい二人称的な圏域(数名)が限界であり、それを超える大量殺戮になればなるほど人を殺す倫理的負荷は低くなるという。ナイフで数名を殺すよりも核兵器で数十万人を殺すほうが倫理的には容易となってしまうのである。この落差(人間の倫理的想像力・倫理感情能力と大量殺戮兵器を可能にする生産的科学・技術=テクノクラシーとの著しいギャップ)をアンダースは「プロメテウス的落差」とよび、この落差を批判(調整)することを反核運動の至上命題としていた。

 人間の倫理的想像力の範囲内に科学・技術の使用範囲を縮小するべきであると──あるいは、人間の倫理的想像力の射程範囲を(科学・技術の適正使用を可能にすべく)拡大するべきである──。しかし、ドローン技術によってこの「プロメテウス的落差」は拡大し続けている。

 倫理や道徳を考えるとき、やはり〈人間の自己中心性と自己保存の軛〉を考えざるをえない。現段階ではカントが提唱した「永遠平和」の理想は虚しいが、かといってミーイズムに居直りたくもない。どうせ人間は自分のことしか考えられない利己主義者であると開き直って、自己の生存戦略のみを追求するような人間にはなりたくないのである。

 わたしはこのような文章をのうのうと書いているが、こうしているうちにガザではたくさんの人たちが空爆で死んでいる。そのことによる直接的な(フィジカルな)痛みを感じないですんでいる。わたしはそんなことよりも、日常生活のたわいもない卑小な個人的悩みにとらわれて生きている。

 

 1994年、アフリカ・ルワンダフツ族ツチ族の対立による内戦が勃発した。わずか100日間に80万人以上が虐殺された。 国連平和維持軍はその悲劇をただ眺めることしかできず、 結局、何もできなかった。

 

 いたるところに死体が転がっていて回収できるような状態ではありませんでした。何匹もの犬が死体をあさり、うろついていました。犬の泣き声と死体のにおい。私たちは大量虐殺を目撃したのです。

(国連平和維持部隊・司令官ダレール)

 

 国連軍の任務はあくまで「平和監視」であり、銃を使用するには許可が必要だった。しかし衛生上の問題から「犬を撃ってもいいか」という許可だけは願いでたという。これが映画『SHOOTING DOGS』の意味(「犬しか撃てないPKO」)である。(日本語タイトルは『ルワンダの涙』2007年公開)

 ルワンダの内戦では、国連PKO部隊は虐殺を防ぐことができなかった。ホロコーストのような大虐殺を二度と起こしてはならないという理想のもとで国連ができたのに、結局何もできなかった。 事実上、世界はルワンダを見捨てた。 1994年、国連本部は平和維持部隊の人員を300人に減らす決議案を採択している。 現地の兵力増強の訴えを棄却していたのだ。 棄却理由の背景には「ソマリアアメリカ兵18人の犠牲」とルワンダの「ベルギー兵10人の犠牲」があった。 また「ルワンダには何の戦略的な価値も資源もない。あるのは人だけだ」と言う人もいた。白人の兵士を1人送り込むにはルワンダ人8万5千人の死が必要だったのだ 。これがルワンダ人の「命の価値」である。

 技術学校に逃げ込んだルワンダ人の最後の願いは(PKO部隊にたいし)「撤退する前にその銃で私たちを殺してくれ。鉈で殺されるより苦しまなくてすむ。銃なら一瞬で死ねるから…」 というものだった。(フツ族ツチ族を鉈で虐殺していた)。

 この無力さと無念さを何度くりかえせばいいのだろう。ウクライナ戦争とパレスチナ戦争のダブルスタンダードと、ホロコーストの悲劇をガザ住民へのジェノサイドに連鎖させてしまう循環構造(植民地主義)。いま現在、世界史的に大変なことがおこっている。

 第二次世界大戦の残虐性への反省によって強化された「人権」や「人間の尊厳」という言葉は空無だった。今回のパレスチナ紛争でそのことが明確になった。人権も尊厳も普遍概念ではない。これらはある特定の地域や条件によって限定される恵まれた特権的な権利だったのだ。欧州の理想的人権思想はカントの理念に近づこうとしたが、無理だった。もしかしたら人類には不可能なのかもしれない。

 わたしは自分の〈自己中心性と自己保存の軛〉にとらわれつつ、個人的な倫理的想像力の及ぶ範囲内でなにかをするしかない。だが、ほとんどなにもできないのである。

 

 




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