前回記事の続きです。
こちらの本に書かれていた、やなせたかしさんの戦争体験から、父から聞いた戦争体験を思い出したので、そのことも絡めて書いていきます。
やなせたかし氏は、22歳で徴兵され、ドラマでもあったように、初年兵は殴られる日々だった。
その後、幹部候補生となり、軍曹になった後、暗号手として中国戦線へ送られる。
この本にも、中国でのエピソードが色々書かれていた。
「宣撫班」(戦地広報)に入ったやなせ氏は、その福建省で現地の人々に見せる紙芝居を制作する任務に就く。
そこで、かつて中国の新聞記者だった父のメモにあった、「東亜の存在と日中親善は双生の関係である」という言葉から「双生譚」という紙芝居も制作する。
中国では、武器を持って直接戦ったわけではないけれど、マラリアに罹り、堪えがたい飢えも体験した。
「広東特派員」だったやなせ氏の父親も、やなせ氏が子供の頃、中国で病により死去。
やなせ氏が1000キロに及ぶ苦しい行軍中、父が愛した中国で、父がたどった同じ道を、父が見た景色を見ながらの行軍は、30年の時を経て不思議な気持ちにもなったそう。父親に導かれているような、守られているような気持ちになったのだろうなと思う。
戦争は人間の本質を露にする
「同じエリートの上官でも、人間性には天と地とほどの開きがあり、戦争は人間の本質を露にするもの。」
「崇たちは上官が良い人だったから、現地の人を傷つけたり、略奪行為をしなくて済んだ。」のだそうだ。
私の父や叔父の戦争体験
「崇と同世代の若者は、20代の大部分を戦争に捧げることになるので、崇たち大正時代生まれは、青年期と戦争が重なり、戦死者が群を抜いて多い不運な世代だった。」
という部分で、私の父親も大正11年生まれで、徴兵され戦地へ行ったので、青春期と戦争が重なり不運な青春時代だったのだと改めて感じた。
父は、徴兵されて陸軍に入隊し中国へ送られた。
ドラマで、崇たち初年兵は殴られる日々だったとの場面で、父が言っていたことと全く同じだと思った。
父は戦争や軍隊でのことを多くは語らなかったけれど、その中国での軍隊生活で、ある晩、父よりも若い少年兵が、上官に革靴かなんかで殴られ、翌朝冷たくなって死んでいたってことは、お酒を飲むと、たまに辛そうに話していた。
その後父は、やなせ氏と同じようにマラリアに罹り、日本へ送還されたそうだ。(やなせ氏は中国で回復したけれど。)
この本にも、その当時中国へ派兵された多くの兵隊がマラリアに罹り、命を落としたと書かれていた。
日本へ戻り、養生して回復した父は、やがて父親(私の祖父)から「病気が治ったのなら、ぶらぶらしていないで働きに出ろ」と言われたそうで、警察官になった。
初めて勤務した本所警察署(今の亀戸付近)で、東京大空襲に遭い、「こっちだこっちだ」と町の人々を川の方向へ誘導しながら、自らも急死に一生を得たのだそう。
でも翌日から、遺体の片付けが始まり、辛く大変だったということは、やはりアルコールが入ると何度も話していたのを覚えている。
小学生の時、姉と二人父に連れられ、墨田区にある「東京都慰霊堂」へ行ったことがある。「東京都慰霊堂」は、関東大震災と東京大空襲を伝える記念館。
この地にあった、関東大震災時の「本所被服廠跡」での惨劇や、東京大空襲の絵や写真などを見て、その悲惨さに、暫しトラウマ状態になってしまったのを覚えている。
父は、マラリアに罹り、日本へ送還されたことに、後ろめたい気持ちを持っていたように感じた。
やなせ氏も、自身の戦争体験を80歳を超えるまでは語れなかったのだそう。他の戦死者に申し訳ない気持ちがあって。
無事生還できても、自分だけ生き延びて申し訳ないという自責の念は、昔も現代の戦争でも、または自然災害でも、多くの人が感じてきた辛い気持ちだろうと思う。
でも、父がマラリアに罹らなかったら、きっと中国の戦地で命を落としていた確率は大きいし、その後の東京大空襲でも助からなかったら、姉も私も生まれることはなかったと思うと、よく幾たびの危機を乗り越えてきてくれたと思う。記憶になくても、1歳のときに「関東大震災」も経験しているので。
私の母の長兄も、徴兵され、ニューギニアで戦死した。戦死といっても、餓死だったそうだ。
この本でも、やなせ氏は、中国で壮絶な飢えを経験したことが書かれている。
「肉体的な苦痛はいつしか慣れる。でも空腹には決して慣れることができない。」
「飢えは人間の尊厳を奪う。」
上官から殴られることは、次第に慣れたけれど、空腹は苦しみの極致だったことが伺われた。
母の兄も、他の将来あるたくさんの若者も、同じ苦しみを味わい、ジャングルの中で死んでいったのだと思うと、本当に可哀そうに思う。
日本軍兵士の多くは、戦闘よりも、餓死で命を落としたそうだ。
特に南方へ送られた母の兄のように、東ニューギニアでは9割の兵士が餓死だったそう。
調べたところ、日本軍兵士の戦死者は、約230万人で、その6割ほどが病死、特に餓死が占めていたそうだ。
その原因は、無謀な戦争拡大に加え、船による補給路が途絶えていたこと。
でも、兵士が飢えていたわけは、補給路が途絶えたからだけではなく、そもそも兵士の命を重視していない軍の方針があったからとのこと。
日本軍兵士の多くは餓死や自決、ときには「処置」も――死者からわかる戦争の実像 #戦争の記憶(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
この記事にもあるように、
「日本にはどこか人間軽視の思想があって、その点が米国とは格段の落差があり、犠牲を大きくした。」のだそう。
このことは、前回のブログでもお名前を出したけれど、数か月前に観たEテレでの「最後の講義」、今日が人生の最後なら若者に何を伝えたいかという番組で、ノンフィクション作家の保阪正康氏も同じようなことを語っていた。
戦況が悪くなり、ただ闇雲に突き進んだ日本軍と違って、当時アメリカでは兵士を守るため戦闘計画はかなり計算されていたとか。
母は私が子供の頃からよく、戦死した長兄のことを懐かしそうに話していた。
とても優しく、兄弟姉妹の中で飛び抜けて成績が良く、上の学校へ行かせてくれと、学校の先生がわざわざ両親に頼みに家まで来たと。
母の二番目の兄も戦争に取られたけど、生還して帰ってこられた。その叔父一家には、私も夏休みに遊びに行ったりとてもお世話になった。
その叔父一家が、私が子供の頃家に遊びに来た時、うちの父親と戦地での苦労話をしていて、叔父の話に感銘を受けた父が、是非テープレコーダーに吹き込んでくれと、叔父のその話を録音したことがあった。
そばで聞いていたはずの私は、今では話の内容をすっかり忘れてしまっているけれど、戦地へ行った同士、色々共感できたんだろうと思う。
朝ドラ「あんぱん」での戦争中の描写で、一番胸を締め付けられたのは、戦地へ向かう前の弟・千尋が兄の崇に会いに来た時。千尋の兄に向けた、その感極まった叫びが忘れられない。
「この戦争がなかったら、愛する国のために死ぬより、愛する人のために生きたい。」
など、「この戦争がなかったら」に続く、千尋の色々な無念の言葉には、同じように戦死していった、当時の数多くの若者たちの叫びを代弁しているように感じた。
毎年終戦記念日が近づくと、父の戦争体験などブログに書いておきたいと思ったので、この本を読んだことがきっかけで、今回書けて良かったと思う。
父が描いた漫画
父は、絵や漫画を描くのが好きで、近くの土手からの風景も写生したり、その水彩画の絵を部屋に飾っていたりした。子供心に上手いなぁと感心していたのを覚えている。
この本にも昭和初期に流行った漫画として、やなせ氏もファンだったという、田河水泡・作の「のらくろ」の漫画のことが載っていたけれど、父親も同じく「のらくろ」のファンで、「のらくろ上等兵」という漫画を大事に持っていたのを思い出す。
また、父も漫画を描くのも好きだったそうで、やなせ氏と同じように、戦地で漫画を描いて、上官に褒められたこともあったそうだ。
警察官になってからは、「自警」という警察官の雑誌に漫画を応募して、時どき掲載されていたようだ。
14年前に父が亡くなったとき、その漫画が載っている父親のノートを形見としてもらってきたので、添えられている解説とともに最後に少し載せておこうと思う。
今月2日は父の誕生日だったし、今月は実家のお盆でもあったので。
今頃空の上で、苦笑いしているかな…笑


(まだ信号機がなかった時代、車の往来が多い交差点では、父のようなお巡りさんが手信号で交通整理をしていました。)

この「のっぽさん」は、何作品かシリーズで描いたようでした。
【おまけ】
先日、自然が多い場所で、蝉の羽化を見つけました。透き通った緑色がとても綺麗でした。今年の夏は蝉の鳴き声をあまり聞きませんでしたが、最近になってようやく聞こえてきました。

