
土岐頼芸(とき よりのり)は、戦国時代の美濃国守護で、家臣の斎藤道三によって追放された守護大名として有名です。
戦国の世を80年以上生き抜き、文化人としての一面も持っていた人でもあります。
ゲームの「信長の野望」シリーズでも必ず登場しますが、その経歴を知ったほうが、戦国時代を駆け抜けた一人の武将として愛着が湧いてくるものです。
そこで本記事では、大河ドラマやゲームの「信長の野望」シリーズの話も交えながら、土岐頼芸の生涯や魅力を解説します。
土岐頼芸の出自・功績・逸話
土岐頼芸は、土岐政房の次男として生まれ、美濃国の守護を務めましたが、後に家臣の斎藤道三によって国を追われました。
| 名前(読み方) | 土岐 頼芸(とき よりのり) (読み方には諸説あり。詳細はゆかりの地、護国之寺で解説) |
|---|---|
| 別名/渾名/二つ名 | 濃州太守、宗芸 |
| 生年 | 文亀2年(1502年) |
| 没年 | 天正10年12月4日(1582年12月28日) |
| 父 | 土岐政房 |
| 母 | 不詳 |
| 兄弟姉妹 | 頼武、治頼、梅戸光高、揖斐光親、鷲巣光敦、頼満、頼香、光建、各務盛正室 |
| 妻 | 正室:六角定頼の娘 側室:深芳野 |
| 子 | 頼栄、頼次、頼宗、頼元、大圓 |
以降では、土岐頼芸の生涯や功績を詳しく見ていきましょう。
出自
土岐頼芸は、文亀2年(1502年)に美濃守護・土岐政房の次男として誕生しました 。
当時の美濃国内では、重臣の斎藤家が衰退し、代わって長井家が台頭するなど、不安定な情勢でした 。
父の土岐政房は、次男である頼芸を溺愛し、長男の頼武の廃嫡を考えるようになったため、これが土岐氏の家督争いの原因となります 。
この争いには、小守護代の長井長弘や、斎藤道三の父とされる長井新左衛門尉が頼芸派に加勢しました 。
家族や親類
父は、前述のとおり美濃守護の土岐政房です 。
長兄の頼武とは、守護の座を巡って激しい対立を繰り広げました 。
正室には六角定頼の娘を迎え、六角氏との関係を築きました 。
側室の深芳野は、後に家臣の斎藤道三に下賜されています 。
深芳野の子である斎藤義龍には、土岐頼芸が実父であるという説もありますが、これは江戸時代の創作とも言われています 。
また、子の一人である大圓は、父の追福のために三河国(現愛知県豊川市御津町)に真宗大谷派の等光寺を創建しました 。
歌人の土岐善麿は、この大圓の子孫にあたります 。
内政や合戦での功績
永正14年(1517年)、頼芸は長兄の頼武との間で家督争いの合戦に敗れました 。
しかし、翌永正15年(1518年)に再び挙兵し、前守護代・斎藤彦四郎の助力を得て勝利、頼武を越前国へ追放しました 。
永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を受けた頼武が美濃に侵攻すると、頼芸側は敗走。
頼武が美濃守護の座に就きます 。
しかし大永5年(1525年)、頼芸は政権奪取を企てて再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠します 。
享禄3年(1530年)には頼武を再度越前国に追放し、「濃州太守」と呼ばれ、美濃の実質的な守護となりました 。
その後、後ろ盾であった長井長弘や長井新左衛門尉らが相次いで死去。
以降では、新左衛門尉の子である長井規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力の保持を図ったとされます 。
天文4年(1535年)6月には、頼芸は父の十七回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言 。
ちなみに同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が長良川の洪水で流され、稲葉山の麓へ移りりすむという災難に……。
天文5年(1536年)には、第12代将軍・足利義晴の執奏により美濃守に遷任され、正式に守護の座に就きました 。
対立関係にあった六角定頼の娘を娶って六角氏と和睦し、天文8年(1539年)には甥の頼純との和議も成立させました 。
しかし、天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟・頼満を毒殺する事件が発生。
道三との仲が険悪となり、美濃に新たな対立構造が生まれます 。
そして天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城。
頼芸は子の頼次ともども、道三により尾張国へ追放されてしまうのです 。
その後、尾張国の織田信秀や越前国の朝倉孝景の支援を得て、一時的に守護の座に復帰。
しかし、天文15年(1546年)に道三と孝景が和睦した際、その条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡しました 。
さらに天文17年(1548年)には、織田信秀と斎藤道三が和睦。
後盾を失うことになった頼芸は、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放されることとなるのです……。
美濃の守護は何度追放されるのかw
晩年と最期
美濃を追放された土岐頼芸は、近江国の六角氏のもとへ身を寄せました 。
この時期に頼芸は出家し、「宗芸」という名を名乗っていたと伝えられています 。
また、実弟の治頼がいた常陸国に、土岐家の系図や家宝を譲り渡したそうです。
その後、上総国の一族である土岐為頼を頼り、さらに甲斐国の武田氏の相談役を務めたこともありました 。
美濃出身で土岐氏ゆかりの僧である快川紹喜に招かれます 。
ただし、晩年には病によって失明していたのだとか…… 。
この最晩年の天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見されます 。
旧臣である稲葉一鉄のはからいにより、頼芸は故郷である美濃国に戻ることができました 。
しかし、美濃に戻って半年後の天正10年12月4日(1582年12月28日)に死去。
享年81歳(または82歳)でした 。
土岐頼芸の墓は、岐阜県揖斐川町の法雲寺にあります 。
押さえておきたいエピソード
土岐頼芸にまつわる逸話は、以下を押さえておくといいでしょう。
- 文化人として知られ、特に鷹の絵が得意 。彼の描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として珍重されている。
- 同じく鷹の絵を得意とした画家として、一族の土岐冨景や土岐洞文がおり、頼芸と同一人物と推定されることもある 。
- 頼芸の孫で、子の頼次の子にあたる土岐頼高も鷹の絵が得意。後に豊臣秀吉に仕え、徳川義直の御伽衆を務めている。
- 斎藤道三の子である斎藤義龍の生母・深芳野は、かつて頼芸の愛妾で、道三に下賜されたと伝わる。義龍が頼芸の実子であるという説も存在するが、これは江戸時代の創作であるとも 。
- 忠臣蔵(赤穂事件)で、浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際、「殿中でござる」と叫ぶ武士は、旗本の梶川頼照。頼照は、土岐頼泰の次男。土岐頼泰は、土岐頼次の三男。そして土岐頼次は土岐頼芸の子 。つまり、土岐頼芸のひ孫!
ほかにも興味深いエピソードがあれば教えていただきたくっ!
信長の野望シリーズでの土岐頼芸
「信長の野望」シリーズといえば、戦国時代のシミュレーションゲームでおなじみです。
ここでは、「信長の野望」シリーズのなかでもおすすめのタイトルで、土岐頼芸の能力がどのように設定されているのかを見ていきましょう。
タイトル別能力
土岐頼芸の各タイトルでの能力値は以下で設定されています。
| タイトル | 政治 | 知略 | 武勇 | 統率 |
|---|---|---|---|---|
| 信長の野望・創造PK | 62 | 68 | 28 | 44 |
| 信長の野望・創造 戦国立志伝 | 62 | 68 | 28 | 44 |
| 信長の野望・大志 | 内政61 外政66 |
68 | 30 | 43 |
| 信長の野望・新生 | 54 | 72 | 27 | 42 |
タイトルごとの所持戦法や特性は以下のとおりです。
| タイトル | 戦法 | 特性・個性 | 志 | 奉行特性 |
|---|---|---|---|---|
| 信長の野望・創造PK | 鬨の声 |
|
- | - |
| 信長の野望・創造 戦国立志伝 | 鬨の声 |
|
- | - |
| 信長の野望・大志 | 足止め 補佐:回避 |
|
所領拡大 | - |
| 信長の野望・新生 | 底力 |
|
- | 高家心得 (高家の誉れ) |
ゲーム内で向いている役割
「信長の野望」シリーズでは、政治と知略が60台~70台と、内政や外交・調略が得意な武将として設定されています。
武勇や統率が低めなので、直接的な戦闘よりは、後方支援や外交、内政で力を発揮するタイプといえるでしょう。
「信長の野望・創造 戦国立志伝」までは、戦法や特性はあまりぱっとしない感じでしたが、「信長の野望・大志」から少し変わってきました。
「信長の野望・大志」では、「足止め」持ちで、うまく使えば敵部隊の行動を制限し、集中砲火を浴びせたり、味方の損害を減らしたりできます。
また、「信長の野望・新生」では体力を回復できる「底力」持ちになり戦法、特性で「数寄」が設定されています。
文化人としての側面が、ようやく反映されましたw
「数寄」は、低確率で茶器をどこからか盗んで、奪って、拾ってくるので、意外に重宝する特性なんです。
家宝は武将の忠誠アップにも役立ちますが、それよりも、大国が攻めてきた再の停戦交渉条件としての利用価値のほうが大きいです。
「高家心得」の奉行特性も、成功率は低いですが、敵の兵力をごっそり減らせる意外に強力な心得。
能力値はいまひとつでも、実は、活躍の場が何気にある武将に成長しています。
家臣としてなら、茶器拾い役と政策「高家の誉れ」施行役!
大名プレイなら、斎藤道三(利政)に実権を握られる前の、信長誕生シナリオ(1534年)。
それ以外のシナリオでは、無理やり大名に返り咲かせるか、「信長の野望・創造 戦国立志伝」で家臣から大名になり上がるかのどちからになります。
個人的には、まだ周辺大名が力を持っていない信長誕生シナリオで、天下統一を目指すのがおすすめ!
土岐頼芸プレイにおすすめのタイトル
土岐頼芸プレイにおすすめの「信長の野望」シリーズは、以下4つのタイトルです。
それぞれでおすすめポイントが異なるので、プレイスタイルに合うものを選びましょう!
| タイトル | おすすめポイント |
|---|---|
| 信長の野望・創造PK |
|
| 信長の野望・創造 戦国立志伝 |
|
| 信長の野望・大志 |
|
| 信長の野望・新生 |
|
「信長の野望・創造 戦国立志伝」以外のタイトルの場合、大名プレイをするには以下どちらの方法が必要な点に注意してください。
土岐頼芸が登場する小説・書籍・アニメなど
続いて、各メディア作品で土岐頼芸に関するものをピックアップしておきます。
土岐頼芸が主人公の作品はおそらくないと思いますが、戦国時代ものの作品で、美濃斎藤家の話なら登場する可能性があります。
興味がある書籍や作品があればぜひ!
登場する小説
- 『くちばみ』 2020年 花村萬月
「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三の生涯を描く時代小説です。土岐頼芸は美濃守護として登場し、道三によって追放される運命の人物として描かれています。道三の長男・義龍が実は土岐頼芸の子ではないかという噂に、心を奪われる展開もあります。
リンク
土岐頼芸の関連書籍
- 『地図と読む 現代語訳 信長公記』 2019年 著:太田牛一、翻訳:中川太古
織田信長の旧臣・太田牛一が記した信長の一代記を現代語訳したもので、第24話「土岐頼芸公の事」では、頼芸が斎藤道三に追放される経緯が記述されています 。
リンク - 『美濃土岐氏――平安から戦国を駆け抜けた本宗家の戦い』 2024年 横山住雄
中世武士選書第50巻として刊行された研究書で、土岐本宗家の歴史と斎藤道三との抗争が詳しく書かれています 。
リンク
大河ドラマでの土岐頼芸
土岐頼芸は、大河ドラマでは以下の2作品に登場歴があります。
『麒麟がくる』では、美濃の守護・土岐氏の一員として描かれ、鷹狩りをしたり鷹の絵を描くなど、文化的な一面が強調されています 。
また、斎藤道三に「あやつり人形に毒は盛らない」と言われる場面がある一方、道三の嫡男・高政に自分が実の父親であるかのようにほのめかすなど、したたかさも持ち合わせた人物として描かれました 。
ちなみに、2026年の『豊臣兄弟!』では、登場する可能性はかなり低いです。
土岐頼芸が主人公に選ばれることも……可能性はゼロではない!?
ゆかりの地:土岐頼芸と歴史を感じる場所
土岐頼芸のゆかりの地を紹介します。
大桑城跡(古城山)(岐阜県山県市大桑)
大桑城跡(古城山)は、土岐頼芸の最後の居城となった山城です 。
岐阜県山県市大桑地区に位置し、標高407.5メートルの古城山の山頂一帯にあります 。
天文4年(1535年)に長良川の大洪水で守護所が被害を受けた後、頼芸が政治機能を移し、城と城下町を整備しました 。
しかし、天文12年(1543年)に斎藤道三との戦いで落城し、頼芸はこの地を追われることとなりました 。
山頂周辺には大小160余りの曲輪(山の斜面に造成された平坦地)や堀切、竪堀などの遺構が残り、山麓には四国堀・越前堀・外堀という大規模な防御施設(惣構)が築かれていたそうです。
見どころは、山頂に昭和63年に建てられた高さ約3メートルの模擬天守閣「ミニ大桑城」。
ここから広大な濃尾平野や岐阜城を望むことができます 。
岐阜城(稲葉山城)(岐阜県岐阜市)
岐阜城は、かつて稲葉山城と称され、斎藤道三の居城であり、後に織田信長が天下統一の本拠地とした山城です 。
岐阜県岐阜市、標高329mの金華山の山頂に位置しています 。
土岐頼芸と斎藤道三が対峙した場所であり、頼芸は大桑城から約14km離れたこの城を見据えていたとされます 。
「美濃を制すものは天下を制す」と言われるほど鉄壁の守りを誇り、日本100名城の一つにも選ばれています 。
天守閣からの360度の大パノラマ景観、戦国時代から江戸時代の武具を展示する岐阜城資料館、織田信長の偉業を讃えて建立された冠木門(別名「天下第一の門」)など、見どころいっぱい!
南泉寺(岐阜県山県市)
南泉寺は、土岐氏の菩提寺として知られる寺院です 。
岐阜県山県市に位置しています 。
永正14年(1517年)に頼芸の父、土岐政房が仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)を招いて開山しました 。
境内には土岐頼純(頼芸の甥)の墓があり、天文20年(1551年)には土岐一族出身の快川紹喜(かいせんじょうき)が住職となりました 。
土岐頼芸の作と伝わる鷹画をはじめ、頼純の肖像画、快川紹喜頂相などの貴重な資料が所蔵されています 。
また、重厚な風格のある山門も必見です 。
護国之寺(岐阜県岐阜市長良雄総)
護国之寺は、高野山真言宗の寺院です 。
岐阜県岐阜市長良雄総に位置しています 。
この寺院では、江戸時代の古記録において土岐頼芸の「芸」に「ノリ」と振り仮名が付けられた資料が発見されました 。
この発見は、土岐氏研究団体・美濃源氏フォーラムの調査により、土岐頼芸の正しい読み方が、「よりのり」であるとする根拠となりました 。
かつては「よりあき」「よりなり」「よりよし」といった読み方も存在しましたが、近年この資料によって「よりのり」が明確になったのです 。
境内には、江戸時代に住職家を受け継いだ土岐氏の系統をひく村山氏の家譜が保管され 、土岐氏関連の歴史資料を深く知る上での見どころの一つです 。
土岐頼芸の墓(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲岐礼)
土岐頼芸の墓は、岐阜県揖斐郡揖斐川町にある法雲寺にあります 。
法雲寺は、土岐氏最後の美濃国守護であった土岐頼芸の終焉の地として伝えられています 。
頼芸が斎藤道三によって美濃を追われた後、旧臣の稲葉一鉄が、頼芸をこの地(岐礼)に迎え、東春庵を設けて住まわせたそうです 。
墓石は高さ約2mの自然石で、碑面には「東春院殿左京兆文官宗芸大居士」と刻まれています 。
また、右側の碑面には頼芸の没年である「天正十壬午年十二月初四日」が刻まれています。
土岐頼芸の生涯と功績まとめ
土岐頼芸は、戦国時代の美濃国守護でありながら、家臣の斎藤道三に国を追われたという波乱の生涯を送った守護大名です。
家督争いから守護の座に就き、一時は安定した治世を築きましたが、道三との対立により再び美濃を追われることに。
一方で文化人として鷹の絵を得意とし、「土岐の鷹」として珍重された一面も持ち合わせていました 。
美濃を追放したのが家臣の斎藤道三だったのに対し、美濃に連れ戻したのが、同じく家臣であった稲葉一鉄という巡り合わせもおもしろいです。
ひ孫が忠臣蔵にどっぷり関わっているのも興味深いです。
ゲーム「信長の野望」シリーズにも常連として登場し、最新作では地味だけど使いどころのある武将になっています。
意外に大名プレイでも面白い武将なので、これを機会に土岐頼芸でたっぷり遊んでもらえるとうれしいです。
では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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