立派な白菜を買った。立派過ぎて冷蔵庫に入らないので貯蔵棚に無造作に置いていたらころんと今日転げてしまった。
「ごめんねえ!」と勢いで白菜に謝ってまるで子どものように白菜を可愛がってる、と思う。
実際愛おしい。あまりにも美味しいので。
そういえば、昨日書いた友達のエッセイ、元々は「自分の文の良さ」というのは自分では気付けないのではないか、という話もしたかったのでは、と今朝、気付いた。
まあ結局昨日書いたことが読んだ時からの強烈なインパクトの核だとも思うからあれでよかったと思うけど。
でもせっかくなのでもう少し書きたい。私は、その文を読んで「読みやすいなあ、本当に初めて…?」と震えながら読んだりした。また、私は感情に振り回されながら文を書きがちなので、自分の感情の手綱を握りながらもそれでもそれぞれ書きたいことを一つ一つ積み上げていく文章にいいなあ、と思った。
ら、その友達と文の良さの話をした時に、「力んだ文になった」と言っててあんなにリラックスした文なのに?!とびっくりしたのだ。
また、私の文について同じようにその友達が思ってると聞き、「隣の芝じゃん…!」と思った。
そうしてしみじみ、自分の良いところって見えないんだなあとも思った。
昔、フルーツバスケットという少女漫画のなかで互いのいいところは背中についていて、だから自分は「私には具がない」と落ち込んでしまうし、周りの具が美味しそうに見えるのだ、と喩えていて、ことあるごとにそれを思い出す。なら、仕方ないか。
そういう誰かの具材を見つめながら羨ましいと思いつつ、私たちは生きている。
ただ、ここ最近思うのは、歳をとってくると自分の具材を直接は見れないけど「まあ何かはあるんだろうな」と信じられるようになる。
信じるというか、祈るというか、そうであれ、と思いながら「というか、そうにしたら良いのだ」と開き直ったりもする。
そういう歳をとっての図々しさを、私は悪くないな、と思う。
仕事でなんとなーくぱつぱつになってきているし、やっぱり祝日などではない休みを削っての仕事は明らかに自分の余裕を奪ってる気がする。読みたい本もあるし、本の締め切りは今週末だ。
どうすんだよ、と思う。思うけど「どうにか出来る」と思う図々しい大人になったんだよ、と「やだよー」と言いながら、過ごして思う。
私の背中にある具材を私は一生見ることはないけど、それでも「ある」と言い張って生きていくんだよな。
Wavebox始めました。絵文字だけとかメッセージとかを匿名で送れるやつです。
ぽちぽち、ありがとうございます。図らずもおにぎりの話を書いてしまった。嬉しいです。
こんな感じで私の元気が出るのでよければ〜。