今日は年末年始ぶりに姪っ子と会っていた。手を繋ぐ場面が何度かあり、そのたびに乳児の手の熱さに驚く。し、この間まではよちよちと歩いていた子がはしゃぎ回ってぴょんぴょんとジャンプしようとするのを見ると「生きてるなあ」と思う。
なんだい、この間の12月には私や父に人見知りをして泣く寸前、身を捩って逃げようとしてたのに。そんなことをくすぐったく思う。父からこしょこしょされて笑いながらはしゃぐ姿は、「孫」過ぎて面白かった。
わからない、と思うことが結構ある。
父と久しぶりに食事をする時も「正解」がわからなくなるし、しみじみ、せっかくきてくれてるけど楽しいのか?そもそも、少し離れて生活した後だと「生活のリズムのズレ」が生まれて、会うたびにそれを確認することになるからしんとくないか?なんてことを思う。それでも父の反応から総合評価で考えるに、たぶん、会いたいと思っているらしいから時間を作っては「ほんとか?」と思う。
姪っ子と会っていたので当然、義兄とも会うのだけど、義兄もかなり正直わからない。
面白くない、と思ってしまうし、「おお、なんでそんな言葉選び、そんな話題選びをするかね」とびっくりする。不謹慎って別に随分歳の離れた人間の専売特許ってわけじゃないよな。
自身だってそこそこ不謹慎や強い言葉の笑いは好きなくせに「苦手」もあるのだな、とこの分野の幅広さを考えるタイプの現実逃避をすることにもなるし、こういう「社会」の人間が自分の属するコミュニティとエンカウントした不思議をしみじみ考えたりする。人生って、何が起こるかわからないものだね。
そして夜は、友達と飲みに行った。
友達とはほぼ夏ぶりで、夏に「ちょっと諸々の連絡を控えますね」と話をした相手だった。そんな相手に私が会いたくなって「もし嫌じゃなければ二人で飲みませんか」と誘ったのだ。
客観的に見たらこれは「私が」わからないだなあ、と思う。
というかなんなら、あの頃は、というかここ数年はずっと私は「分からない」の状態でそれで度々、人間関係の事故を起こしてきたな。
でも、しみじみ、私はこの友達が好きなのだ、と思って、好きなんだよなあということを確認したかったので、ツラの皮が厚すぎるけど会った。そしてそのツラの皮の厚さを詫びつつ、でも会いたかったのだ、と話をしたら「そういう風には思ってなかったですけどね」と言われた。これもまた、ある意味で「どんな風に見えているかは分からない」だ。
ともあれ、この、会ってなかった半年の話をしたり、各々の好きなものの話をして「またこういうことをしましょう」と約束をして帰った。
今日の日中は「どのツラ下げて」と思っていたけど、こういうことにもなるから、本当にわからない。
分からないことが苦手だ。それでも「わかる」という顔をしていないといけないと過度に思ってしまう。そうして頑張って頑張って、そしたら、疲れて、「全部無理だな」と思ってしまう。そんな自分がどうやって生きていくんだよと分からなくなって深めの自己嫌悪に落ちていたけど、こんな感じなのかもしれない。
姪っ子は、滅多に私の名前を呼ばない。呼ばないけど、今日おむつ替えで離れて私の姿が見えなくなった時に「つくは?つくはどこ?」と言っていたらしい。
君の中に、私はいるのか。全然そんなの、分からなかったよ。
分からないことばっかりだから、すぐに自信をなくしてしまう。だけど、それで引きこもるのってやっぱりなしなんだろうな。間違えるんだとしても。