あ、落ち込んでいたのか、と映画館から出て友達との約束に向かいながら気付いた。久しぶりに好きなロックバンドの曲を聴こうと思ったことも、そこそこ予定を詰め込んでいたのに朝イチの映画に行こうと思ったのもそう。そして今日の友達との予定が希望だったのもたぶん全部そう。
「話したら伝わる」なんてことは幻想だし、そんなこと今更無邪気に信じませんよ、とも思っている。思っているけど、でも「信じたいのだ」とも、心の底から思っているし、信じている「あなた」がいてくれますように、と祈ってる。
今日、ツーリストファミリーという映画を観た。
スリランカから密入国したとある家族を巡るインド映画で、公式サイトには
スリランカでの困窮を極める生活に見切りをつけて、命がけでインドに密入国した一家が巻き起こす善意の連鎖を笑いと涙で描く本作。
と描かれている。たぶん、なんとなくの大筋は分かると思う。分かると思うけど、映画として物語に触れてほしいと思うくらいにささやかで「人間」で「語らい」を描いている。あまりにも大好きな映画だった。
私はその映画で想像してなかったくらいに泣いたし、そしてめちゃくちゃに笑った。コミカルに茶目っけたっぷりに、人間への愛情をこれでもかと描いてくれたと思う。
そうして、昼からは友達とお茶をして、夜、鳥貴族に飲みに行った。私はこの日を約束していた日から本当に楽しみにしていたのだ。
友達とは初めて会った日にもあれもこれもと話すうちに興味関心がどんどん繋がって「じゃあこれは?」「あれは?」と生活の話や好きなものの話をたくさんしてきた。
普段メッセージでやりとりしている「これが良かった」や「これを観てこんなことを考えた」の話を対面で話していくと思いもしない言葉が見つかったり聴けたりする。そういう時、以前「ハチミツとクローバー」や「3月のライオン」で出てきた無限に広がる箱のことを思い出す。
「あれを開けたら何が見れるんだろう」とワクワクしてしまうそれは、きっと人生のびっくり箱なのだ。
話し上手で聞き上手な友達は色んな話を聴いてくれるから私もついつい色んな話をする。昔のこと、今のこと、どうしても飲み込めずにまだここにあること。
ふと、「嫌じゃないかな」と過ったこともあった。話すことは楽しい。楽しいけど、それが、暴力や重みになることはある。一方的な自己開示ってやっぱりそれは「コミュニケーション」ではないと思うし。
だけど友達が丁寧にそうして聴いてくれた内容を「こういうことですか」と開いて見せてくれる様子に「嫌じゃないかな」は違うよな、と思う。もちろん、楽しんでほしいし、気遣いは忘れたくない。私ももっと聞き上手になれたら良いのにとは反省もする。だけどこんな風に受け止めてくれる友達に思うことは「ありがとう」で良いはずだ。
うまく話せない、と思う。話しているのに、話せば話すほど遠くにいってしまうこともある。
毎日流れてくる誰かを責める言葉や、日常生活のなかに紛れ込んだ悪意に怯むこともある。自分だって、持ってるくせに。
「自分と違う」ことを排除したいと思う感情とその身近さに、私は心底、嫌になっていた気がする。
映画のなかで、主人公家族たちは話をし続ける。言葉が違うこと、国が違うことがバレたら酷い目に遭うと忠告されたのに、人と関わり話をする。手を差し伸べたりもする。
その光景が、なんであんなに泣けたのか、分かるけど言葉にすると野暮ったくなりそうで、ぐるぐると考え込んでいた。
その気持ちのまま「こういう映画を観てきて」と話した私に友達がいくつか話した後に言っていた「少し知るだけで変わるんですよね」という言葉をひたすら、大切に手の中で確認している。
知る、は話すことだし出掛けることだし出会うことだし、そして考え続けることだ。それを思い出せて良かった、諦めきってしまう前にちゃんと、私はそれを知れたのだ。