久しぶりにドーナツを食べられて嬉しい。近頃、全然ドーナツを食べられていなかった。まあ一応、ダイエットまではいかなくとも、カロリーをちょっと気にしてはいるし、となると、ドーナツをしょっちゅう食べるわけにもいかなくなる。なんだかね。まあそれはそれとして、耐えられなくもないし、と思っていたけど、今日、久しぶりにドーナツを食べたらたまらなく嬉しかった。
ドーナツ、美味しすぎる。
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そして、ちょっと、自分が出した本の話をする。
おかげさまでちらほらと日記本はじめ、本の感想をいただくことがあって、それを噛み締めている。すごいなあ。
文フリで本を出すようになって数年。毎回、「おいどうすんだ」と始める前に震えそうになるし、吐きそうになる。
こんなに「本を書きたい」ひとがいるのに、その中で本を書いて出して、どうなるんだよ。
逃げ出したいとすら思うけど、さすがに、といつも踏みとどまって本を出している。そういう中で、それでも、不安は0にはならないから感想がくるとああよかった、と思う。
意味ならあったんだよ、ここにとは大好きな『ハチミツとクローバー』の台詞だけど、わりと、そんな感じだ。
今回の日記本は「日記」だからか、「私も分かります」言ってもらうことがあって、と同時にその人の日常や毎日の中の心の動きを教えてもらえたりする。ああ、と頷いてはなんだか嬉しくなって、そういう瞬間の心の感じをこの数日は思い出していた。これってなんだろう。
そう思っていた感覚が今日「ぎゅっと」形になって自分の中に落っこちてきた。
去年『エンタメに生かされている』という本を出した。これまでの生きてきたなかで、エンタメで何度も「生きていける」と思った時のことをまとめた本だ。
私はこの本を書いている時からなんとなく座りの悪いような気持ちがあった。本の中にも書いたけどそもそも自分は十分人に恵まれているはずなのに「エンタメに生かされている」ってなんか、ちょっと、どうなんだろう。友達もいて家族もいて、仕事もそこそこ充実していて、なのにエンタメがあるから生きていけるということは不誠実じゃないのか。
それでもエンタメが……好きなものたちがあったから生きていけた時があった。
と同時に、そうして「これがあれば生きていける」と思ったくせにそっから何かあればまたすぐいけしゃあしゃあと「やっぱりもう無理かも」と思う。生きていけない、どうやったらこんなクソみたいな中で頑張れるんだよ、と思う。
それでも諦めてだらだらと「ただ生きる」ことだけギリギリやろうか、もう、それしかないよな。
そんな気持ちを何回も「好きなもの」「面白いもの」でひっくり返してもらってきた。
これって、なんなんだろう。
自分の中で言葉は伴わないけど確かな存在感をもって、何度も何度も「経験してきた」時間のことを確認したくて、私は本を書いたんだと思う。そう、『エンタメに生かされている』を書き終えて思った。
自分のためだな、と本を書くたびに思う。初めて出したラジオの本からずっとそう。私はいつも、私のために文を書いて、本にしてるな。
それが奇跡的に誰かに手に取ってもらって、読んでもらえるんだからすごいよ。
そんな風に思ってたんだ。思ってたんだけど。
友達から『エンタメに生かされている』の感想が届いた。友達も今、疲れている中でエッセイに心を寄せてくれて「そうか」と思って自分のなかで変化があったらしいと、感想を読んで思った。
その人は、私ではないし、私もその人ではない。だから、全部は分からない。重ねてもらった心の形も本当に「重なった」かは分からない。
だけど、そうか、そうだったかもしれない。私は、こういうことが嬉しいんだな。こういうことがありますように、と思うのはあまりにも壮大過ぎて怖くて出来なかったけど、私の中で「文を書く」の幸せはそういうところにあるかもしれない。
いろんな人の感想を受け取って、あまりにもびっくりして嬉しくて「これってなんだろう」と考え続けていたけど、今ちょっと、わかった。
自分の大切を形を忘れないために文を書いてる。いいものにしたくて、自分の毎日や世界を憎んでしまうようなところに落ち切ってしまいたくなくて、好きなものについてひたすら、言葉にし続けているつもりだ。
それが、誰かにコツンと当たる。当たるだけじゃなくてそこに誰かの世界と繋がる。繋がってまた違う何かになる。
それは、私の好きな人たちがいつか言っていた「優しい復讐」な気がする。今まで好きな人たちが作ってきたもののなかに自分を見つけてはほっと息をついていた自分のように、というには、ちょっとさすがに傲慢かもしれないけど。
それでも、もしかしたらそういう何かのカケラにはなってるのかも。そう思えたことが嬉しくて、覚えているために、今日も文を書いた。
誰かが書いた文でほっと息を吐いてくれたなら、私は嬉しい。