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三つ子の魂百まで的な話

言葉にするかどうか、ということって結構あるな。言葉にしていくことで、形がハッキリとして、その結果「別物」になる。

 

 

 

実家の「たらふくごはんを食べる」の生活を続けていると「ああ正月だなあ」と思う。しっかりと身体が重くなってきたし、胃腸の疲労も感じる。胃腸が疲れてくると、身体のコンディションは落ちていくのだ。
乾燥でやられているのはあるんだろうけど、にしたって、徐々に「疲れているな」とは思う。

 

 


実家で過ごしていてさらに気づいたのは、うちの家族はみんな日記やら何かしらの記録ノートをつけるのが好きらしいということだった。
私も今回、去年の手帳を仕上げたり今年の手帳のセットアップの準備をしていた。ステッカーを貼ったり、何かを書く準備をしながら時間を過ごす。
この手帳があれば大丈夫、と思う。そういうことがある。

 

 


さらに言えば、夜、弟と去年観た映画の好みの話になり、少し喧嘩になりかけた。
「なぜその映画を面白いと思うのか」という言語化で「周りの評価に引っ張られてそう感じるんじゃないか」と言われて「そういうことじゃないんだよね」とほんの少し揉めた。
今回の帰省の中で何度ももやっとしていたこともあり、かなりな早口で喋り倒してしまった。

感想をそもそも言葉にするか、そこに「表現」に意味や意図があるっていう前提はどうなのか。そういう話をひたすらにしていて、結局、共通の「好き」の話をふたりして熱量込めてしていたら「わかる〜」となってしまった。なって「うんうん」と頷きあって「面白いものはすごい」なんて言いながら、解散した。

 

 

 


「喋れば分かる」という感覚は好きじゃない。むしろ、言葉は不便だとすら思う。
でもだからこそ、「喋る」ことが成立するのはなんだか、不思議だ。今回の帰省は度々、家族ってのは好きだとか嫌いだとかの相手じゃないよなあとどこかうんざりするような気持ちになっていたけれど、結局、そうなんだよな。そういうことってあり得るのか。一緒に育ってきたんだもんな。




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