クリスマスマーケットって、ひとと行くものなんだなあと賑やかな明かりのなかでぼんやりと思った。漠然とクリスマスマーケットが好きだ。なんだかんだと複数回いきながらそんなに「満喫した!」という記憶が濃いわけでもないのに、毎年「あ、クリスマスマーケットだ」と嬉しくなる。
これはたぶん「一緒に過ごした誰か」のおかげで発生していて、場合によってはいつでも途切れかねないものな気がする。
それでも今年も「クリスマスマーケットは良いものだ」と思いながら過ごしたので、きっと来年もクリスマスマーケットの気配を感じたら「あ、クリスマスマーケットだ」とそわそわするに違いないのだ。
そんなわけで、友達と仕事終わり、クリスマスマーケットに行った。ここ最近の嫌なことは全て「クリスマスマーケットあるし」と心の中で唱えながら乗り越えてきた私にとっては楽しみの極みのXデーだ。
ここ1年で急激に遊ぶようになった友達が「クリスマスマーケット行きたいなあ」という呟きにリアクションをくれて、なら!と行ってきた。この辺は、たぶん、120%の甘えだ。「行きませんか」と誘えずにいながら、それでもそうして声をかけてくれる人の優しさに全力で甘えてホットワインを飲んだりする。
賑やかな音楽と人の声に「もっと喋りたいな」と思うのもよく考えたらすごい。
雰囲気を楽しんだね、じゃあまたね、だってあったのだ。全然。え、すごいな。
話したいよね、寒いしね、と居酒屋に移動してそれから食べたり飲んだり以上にぽつぽつとあるいは怒涛の勢いでひとと喋る。
最近、ずっと考えていた。最近どころか、これは自分のルーティンみたいなもので「人付き合いの下手さ」だとか「自分のコミュニケーションの不恰好さ」みたいなことを定期的に取り出しては確認して落ち込む。当たり前が出来ないし、苦手だというには卒がなくて、得意だと言うには凸凹してる。
だけど、友達たちはそれぞれに「こうじゃないですか」とそれぞれから見えた景色を教えてくれたりする。
別に。一緒の景色を見れたらオッケーなんて話でもないのだ。というかさすがに、もうこの歳まで生きていたら「一緒の景色」なんて錯覚だって知っているのだ。それでも「こういう景色が見えてて」と話すことのコストや面倒くささを乗り越えて話してくれる人たちがいることに何度だってびっくりする。し、これは、何度だってびっくりした方がいいんだろうな、と思う。当たり前だと思った時、それは、ちょっと自分にがっかりすると思うので。
そうして「こういう景色に見えますよ」と言われたら、別に不恰好な自分のコミュニケーションを許せるわけではないけど、ならまあ、とは思う。諦めがつくというと、さすがにネガティブすぎる。でも、なんというか「ならまあ」だ。
許せるわけじゃない。ただ、誰かは「景色」の一つにしてくれるなら、それは、ならまあ、だ。
友達の一人が以前言ってた「つくさんは生きるのが上手ですね」という言葉のことを言っていた。ごめん、と言われたけど、私は嬉しかった。
生きるのがお世辞にも上手いとは言えないけど、でも自分なりに「生きてる以上一生懸命はやろう」と思ってる。たぶん、その「上手」はそういうことのような気がしたから、誇らしかったのだ。
そんなことを思い出しながら、今日の友達たちは、きっと、そういう風に、少なくとも生活している中で言われる自分の生き方の不格好さをノイズって言い方じゃなくて「そういう景色」として言ってくれるんだな、と思い出している。
書く!と宣言したのもあって、大っぴらに、嬉しかったとこのことを書く。きっと、クリスマスマーケットの景色を見るたびに、私は今日を思い出すけど。今までのクリスマスマーケットの嬉しいを思い出すみたいに。でも絶対に色褪せて欲しくないから、覚えておくために書く。
きっとそれは、いつか、自分の足音を耳障りに思ってしまった時のクッションになると思うのだ。

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2026年1月の文学フリマ京都に申し込みました!無事に日記が1年続けられそうなので記念に日記本を出す予定です。
自分である程度各月1本ずつくらいの日記を選んで振り返ったり補足したりしようかなーと思ってますが、もし「これ良かったぜ」というのがあれば教えてください。参考にします。
何より、私がニヤニヤします。