戦国時代、その乱世が終わる「関ヶ原の戦い」の直前。その戦いに大きな影響を及ぼす山内一豊、黒田長政、毛利秀元が、薩長同盟を結ぶか結ばないか揉める、そんな幕末のタイムスリップする。
果たして、戦国の彼らは、子孫の姿に何を思うのか、そして幕末の彼らはどうするのか。
そんな物語を観た。
以前から映像で楽しんできた劇団の公演を2014年夏、初めて生で観た。それが「耳があるなら蒼に聞け」という、幕末を舞台にした物語だった。
坂本龍馬暗殺という歴史の大きな節目を「もしかしたらこうだったんじゃないか」と解釈するその物語に夢中になって、その冬、それから、2015年以降、何度も東京に通ってはどんどん好きになる劇団、役者さんが増えた。
この『幕末の空に 戦国を見る』の脚本を務めた久保田唱さんは、そんなきっかけの人で、久しぶりにその作品を観た。
まず、もう、お芝居として物語として、私はめちゃくちゃに好きだった。
桂役が大好きな高田淳さんだったり、脚本が久保田さんだったりと、もちろん「自分にとっての特別」の要素があって、他にも好きな人がたくさんいて、というバイアスは絶対に入るけど、それはそれとして、ただただ、お芝居として、大好きだった。
それは、この『幕末の空に 戦国を見る』が、伝わることを、お芝居を、人と人が関わることを信じているお芝居だったからだ。
タイムスリップしてきた戦国大名である、山内、黒田、毛利がその事実を受け止めるきっかけになるのが、ある旅一座の座付作家の存在だ。
逆に幕末の人たちもわりとあっさりと彼らを(もちろんそれはそれぞれに「信じるに値する」情報に触れるからだけど)信じるし、それもこの旅一座の作家、お福がいたから、というのもあると思う。
戦国が大好きだという彼女がそれぞれの事情やおそらく来たであろう元いた時代の事情などを汲み取りつつ、それぞれを橋渡ししていく。
二つの激動の時代。それぞれが関わることで、時代は動くのか。いやなんなら「動かしていいのか」といういわゆるタイムパラドックス的な問いかけにどう答えるんだろう、と思いつつ観ていた。
ネタバレ的なことを言えば「何も変わらない」。
幕末の大きなうねりの直前、そこにある悲劇は起こる。それを彼らは「ただ観ている」ことしかできない。
いや、してはいけない。
ある意味では、このバクソラの中で「物語は動かない」。決まった歴史の道筋を進みながら、彼らは運命を辿っていくし、「変わらない」。
だけど、私には「変わった」ように見えた。
何故なら、彼らはその時代、その場所で、人々と関わり、会話して、考えたからだ。
バクソラには大きな時代の動きのほか、お福の劇団が出てくる。そこのお芝居が、大きな意味を持つ。
いや、もしも何かを変えること、歴史上で犠牲になってしまう誰かを救ったり、「意味のある何か」を生み出すことを「意味」はないかもしれない。ただ彼らはお芝居を打ち、またそれを見る人がいる。
配信で、あるいは劇場でお芝居を観る私たちに重なるような構図の中で「こんな大変な時でも、お芝居を観たいと思うんやね」と口にする、その台詞のことを考える。
言葉にして追いつかせるにはちょっとずつ、足りないけど。でも、例えばそこでお芝居を観ること、観て感じたことを誰かと話すこと。お芝居を観て欲しいのだと誰か大切な人に思うこと。
血を流すことではなくて表現で「届けたい」と思うこと。
そういうことを信じているんだなあと、思った。大いに感傷かもしれない。
だけど、大きな歴史の局面、その直前で観て聴いて感じた何かは意味があったと思いたい。それは、物語のなかだけかもしれないけど。
そういうお芝居があることが、私は嬉しかった。
お芝居を作るひとたちが、お芝居を打って何かが劇的に変わるわけではない物語を、だけど、絶対に何かが変わったと信じているんじゃないか、と思って、嬉しかったのだ、私は。
例えばそれは、実際に誰かを救わなかった、と言えてしまうのかもしれない。だけど、本当にそうだろうか。自分の時代を自分の責任で生きるのだと誰かが思ったこと、目の前の人のことをただただ、考えたり思うこと。生きている人がいること。
そういうことを「想像すること」は無駄なのか。無駄なわけ、ないじゃんか。
数年ぶりに、大好きな作品を生み出してきた人の最新作を観た。そこにお芝居を信じている人の熱量を感じたことが、何より私は嬉しくて、はしゃぎたいくらいに幸せだった。
お芝居を糧に生活していたあの頃に戻ったような気がした。ただいま、と無性に言いたくなるような嬉しさがあった。
また戻って、面白いと思える。面白いはなくならず、続いていく。でも、私はそれが当たり前じゃないと知っている。
その面白いがあるということを感じたことは確かに自分の生きていく生活の中、息づいていくのだ。それは大きな変化には見えないかもしれないけど、確かに意味のある、大切な気持ちなのだ。